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二人の無限――『無限の住人』における不死身同士の戦いの意味(2021)

本文は〈ネタバレ〉を含みます

 長年にわたって連載された『無限の住人』だが、初期は短い話の中で敵を一人ずつ倒す話が多かった。連載作品ゆえに打ち切りの可能性もあり、安定するまではこのような「キャラを次々と倒す」形の漫画は意外と多いのではないかと思う。

 この作品の主人公万字は、「百人斬り」の異名が付けられる強い剣士である。しかし、万字の前には彼より強い敵がどんどん現れる。万字は血仙蟲という傷を修復する蟲が体内にいるおかげで、傷がすぐにふさがったり、切れた手足がくっついたりする。そのおかげで、強敵にもボロボロになりながらなんとか勝利するのである。

 そんな万次が二巻「蟲の唄」の章において対戦するのが、閑馬永空である。彼は敵の組織に属しているものの、心から忠誠を誓っているわけではない。万次に対して手を組む提案すらする。実は彼は二百年前に血仙蟲を体内に入れており、万字と同じ体を持つ者なのだ。

 永空は万次に対して、血仙蟲の効かなくなる「血仙殺」という毒を仕込む。二巻にして万次最大のピンチである。これは何とか乗り越えるものの、永空とは「不死身のアドバンテージが利かない」決戦をしなければならなくなる。

 私は長い連載の中で、この万次対永空の戦いが一番印象に残っている。不死身の主人公にした以上、「不死身対不死身」はどこかで描くべき話だと思う。タイトルが示唆するように、血仙蟲を体内に持つ者は、普通の人々とは異なる「無限を生きるかもしれない」人になる。住人は一人であるはずもなく、その人たちにしかわからない感情や感覚というものがあるだろう。

 もし、普通に戦いの場から離れて生きるならば、血仙蟲はその人を何百年も生かしてくれるはずだ。しかし万次や永空は戦いの中に生きており、「回復できないほどの致命傷」を負えば死んでしまう。彼らは無限と有限のはざまの存在と言えるかもしれない。

 そんな二人が、(完結から振り返ればだが)物語のかなり序盤で対峙する。そこには大きな意味があったように感じられる。


 結論から言えば、勝負は万次の勝利に終わる。血仙殺を塗った刀で、胸から上を切断する。まあ、主人公なので結果は当然そうなるのだが、きちんと勝敗には理由があった。一つは、万次には彼を助けるパートナーがいた。万次を用心棒とした凜は、自らも少しは戦うことができる。彼女の攻撃が特に効いたというわけではないのだが、彼女の言葉は効いたようである。 


「二〇〇年も生きてきて 一度も人の上に立てなかったというなら…… あなたはもう……最後まで 虫のままなのよ!」

『無限の住人 2』p.105


 凜からの攻撃(もしくは言葉)に気を取られている隙に、万次は彼の死角に回り込む。永空は万次の攻撃に気が付いていたが、あえて避けなかった。彼は、死を受け入れたのだ。


「……だが儂も 虫として生きるのは…… もう 疲れた」

同上(pp.115-116)


 不死身の体を持ちながら、決して永空は一番になることはできなかった。万次がそうであるように、死なないだけでは勝てる保証はないのである。そして、不死身であるがゆえに仲間や愛する人を次々と失ってきた。二百年もそれを続けて、彼は疲れ切ってしまったのだ。

 永空は、万次と出会った時に次のように言っている。


「死は冷酷だ ――しかしな 死ねぬというのはそれにもましてむごい事だ」

同上(p.35)


 彼は、物語の登場時から苦しんでいた。上を目指すということを言い訳に、喪失の苦しみから目をそらしていたのかもしれない。そして彼に死を決意させた最後のピースは、おそらく凜の言葉だった。不死身でもなく、剣士としては全く強くない彼女の言葉が、彼を有限の世界へと引き戻したのである。


 最初に読んだときも印象的な章だったが、完結した今あらためて重要性が分かってくる。万次は永空と出会い彼の言葉を聞いたことで、自らの未来がどんなものかもわかったはずだ。まず当座の問題として、永空は万次や凜が敵として狙う天津影久を、一人の力でたおせると考えていなかった。不死身だけでは届かない相手かもしれないのである。すでに万次は自分より強い相手に苦戦しており、道のりの困難さを感じ取ったことだろう。

 そしてもう一つ。運よく目的を果たせたとしても、その後凜とは別れの時が来る。戦いが終われば、彼に待っているのは「生き延びてしまう運命」だ。凜のことを大事に思えば思うほど、万次は永空のことを思い出したのではないか。

 『無限の住人』の結末は、最初読んだときにはとても驚いた。もっと、幸せな形になるかと想像していたのだ。しかしそうならないことは、二巻のこの時点で示されていたのだ、と気が付いた。凜はあくまで「有限の住人」で、その中で幸せになっていくしかない。

 


 哲学者ハンス・ヨナスの『責任という原理』の中に、死に関してとても印象的な言葉がある。


「われわれが死すべきことは、若者の初々しさ、直接さ、そして熱意の中にある永遠に新たなる約束を、われわれにしてくれる。それとともに、他者性それ自体がたえず流れ込んでくる。」

『責任という原理』(p.34)


 生命は、個体としては常に死ぬ運命にあり、有限の存在である。しかし死ぬ運命にあることにより、常に新しい個体を迎える準備ができているともいえる。この時代に対応できる新たな命が存在するためには、古い命が去るということが必要なのである。そしてそのように常に新しい命を迎えることにより、生命は永遠を目指すことができる。

 死ぬ運命を受け入れることは、死を目指すことではない。個体はその運命に抗いながら、できるだけ生きようとする。そのこともまた、生命が豊かに様々なありかたを提供する一因となっている。だから、「死という運命に抗いながらもその運命を受け入れる」という一見矛盾した在り方が、生命の中には存在するのである。

 血仙蟲という、個体を永遠に近づける要素を手に入れたことにより、永空の中の矛盾は常人を越えてしまった。死という運命がない中では、彼は常に新しい時代に対して自分自身で折り合いをつけるしかない。彼は自ら血仙殺を使えば死ぬこともできた。しかし、それを成せるほどの覚悟はできていなかったのだろう。

 自らと同じ不死身の剣士を見つけたことで、彼は「同じ生物に」次代を任せるという生命本来の在り方を見つけたのかもしれない。二百年生きてようやく、「生きる、そして死ぬ意味としての」子孫を得たのである。

 そんな彼も、最初から万次に負けようとしていたわけではない。血仙殺によって万次を倒そうとしたのである。それによって万次が死ぬとまでは思っていなかったようだが、勝とうとしていたことは確かである。しかし凜の漢方によって、万次は解毒された。おそらくその時に、永空は「死を覚悟した」のではないかと思う。自ら死を選ぶこともできるはずの毒が、死に至らぬ可能性を知った瞬間に。

 永空は、生きることに疲れていた。そんな彼の前に現れた、自らと同じ不死身で、さらには毒をも乗り越えてしまった人間。そんな彼に殺されたいという願望は、なんとなくだが「わかる」気がするのだ。万次が今後進む苦難の道を、最も理解していたのは永空だっただろう。「死ねる姿を万次に見せてやる」ことすら、彼が死を受け入れる原因の一つだったのではないかと思われる。

 永空との戦いの後も、万次はボロボロになりながら強敵と戦い続ける。永空との戦いがなければ、万次は死の恐怖と共に「死ねない恐怖」とも対峙しなければならなかったかもしれない。しかし万次は、「死ぬときゃ死ぬ」ことを知りながら戦うことになる。それは、彼を強くしたのではないかと思う。

参照文献
佐村広明『無限の住人 2』(1994)講談社
ハンス・ヨナス(加藤尚武監訳)『責任という原理』(2000)東信堂

初出(2021) 二人の無限――『無限の住人』における不死身同士の戦いの意味 - 妖精が見えない日に考えること(創作エッセイ)(清水らくは) - カクヨム

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清水らくは
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