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音声ファイルNo.35,384,752
●再生
これでちゃんと録音されてるのかな。説明書、どこにやったっけ。ああ、これが赤く光ってるから大丈夫なはず。
仕切り直して。こんにちは、聞いている時間帯によって挨拶は好きなように受け取ってほしい。多分成功しているはずだけどそれを確かめる方法は僕にはないから、このまましゃべるね。改めてこんにちは。僕は違う世界の君だ。
と言って100%信じられるほど素直じゃないし、馬鹿馬鹿しいとこの音声を切れるほどリアリストでもないと思うんだけど、どうかな。そこまで時間は取らせないし、君が興味を持つ話だと思うんだ。いい?じゃあ話すよ。
どこから話したものかな、ふふ、ごめん。気持ち悪いよね、自分の声で自分が話した覚えがない音声が流れるって。まずは僕の自己紹介から、僕は君だ。だけど君自身ではない。一般的に言うとパラレルワールドと呼ばれる世界の君になるはず。
一度この世界を大きな円柱だと思って欲しい。仮に上が過去で、下が未来だと仮定すると時間は流れ落ちる水のようなもの、その柱を輪切りにすると「今」というものが出来上がる。まぁ、この今という概念も難しいんだけどね。「今」という言葉のアイエムエーのアイを発音している瞬間は母音のエーを発している時にはすでにコンマ数秒後の過去だから。まぁいいや。この柱はその単一世界の全てを内包している。外縁部は恐らく無いと思う。もしくは人間の持ち合わせている言葉で表現できる類のものではない。
なんでこういう考えに至ったかというとね。あの時こうしていたらみたいなことって結構あるじゃない。軽いものなら、テストでAじゃなくてBを書いておけばとか、右じゃなくて左に行ってればとか。重いものなら、九死に一生を得るとかもそれに近いものだと思うんだ。選択を誤れば死んでいた、という感じ。その全ての選択肢の分だけ世界が存在しているんじゃないかと考えた。テストでAと書いて1点多くもらった僕と、Bと書いて1点少なくなった僕がいる。それは僕のそこまで長くない人生でもほぼ無限大にあった分岐点で、それら全てが平行に存在している。朝、パンを焼いた僕と焼かずに食べた僕。赤のネクタイを付けた僕とシルバーのネクタイを付けた僕。家を出る時に右足から出た僕と左足から出た僕。という具合に人は常に選択をし続けている。さっきのパンを焼いた先の僕にはバターを塗るか、そのまま食べるか、そのどちらもに牛乳を飲んだ僕とコーヒーを飲んだ僕がいるはずなんだ。今日の朝はここに来るまでに試しに信号機のない道を渡ってみた。今しゃべっている僕はここに無事来ているけど、車に轢かれてけがをした僕、車に轢かれて不運にも死んでしまった僕がいるかもしれない。分からないけどね。
ここまでは僕の分岐と選択の話をしたけど、これはこの世界に存在しているもの全てが立たされる分岐であり持っている権利であり持たされている義務だ。だから同じ選択肢を選んだ僕でも結果が違うこともあるだろうね。さっき話した僕を轢いた車の運転手は数秒前に携帯電話を見るか見ないかの選択をして、結果として僕とその人自身の結果が変わった。世界に存在しているすべてが変数として存在している。ほら、だいぶ自分の価値観と近いことにどんどん気づいてこないかい。ここでいったん休憩にしよう。1分くらい休憩。ちょっと水を飲んでくるから。
●一度、1分程度休憩です。
1分くらい経ったかな。本当に?本当に1分経った僕はえらい。僕の中でもかなり素直な部類だと思うよ。きっとね、待ちきれなくて早送りした僕もいるし、いったん考えを整理するために一時停止した僕もいるし、やっぱり馬鹿馬鹿しいと消した僕もいるはず。君はどの僕だい?まぁいいや。とりあえず聞き続けてくれる僕が多いと思う。この音声が届いているということはしゃべっている僕とはほとんど同じような選択をしている僕のはずだから。
続けるよ。大体の人間はこの世界の自分が唯一無二として疑っていないだろうし、実際それはその通りで、そこの世界に自らを自らと知覚している存在はその人自身しかいないと思う。でも、そのすぐ隣にほぼ同じ世界、さっき僕が話した柱が立っている。一つの柱から全方位に向かって隣り合う柱が存在して、その柱からもまた全方位に向かって柱が存在している。ああ、無理に想像しなくてもいいよ、ここまでくると概念という言葉遊びの段階だから。僕はこの隣り合う世界をずっと確かめたかった。だからいろんな方法を考えて、いろんな方法を試した。でも、この世界の中で何をしようとも、その瞬間に別の柱が立ってしまう。試しにジャンプしたらその瞬間にジャンプをしなかった柱には戻れなくなる。そうこうしている中でこの柱を満たして、普遍に存在しているものを見つけた。それが時間だ。僕は時間にアプローチすることにした。そうして時間を音に変換して届ける方法を見つけたんだ。それはここで説明するには時間が足りないし、音声だけじゃ不可能だ。でもこの音声を聞けている君なら大丈夫、今追い求めている道を進んでいけば、最後の最後足りなかったことを見つけるに至るからね。
これで僕の番は果たされたのかな。そろそろ話を終わりにするね、最後に結びの句は決まっているそうだから、これを言って終わるね。
親愛なる君へ、奇特な君へ、ようこそ別の世界へ。どこかの世界の35,384,752番目の僕より。
●停止
馬鹿馬鹿しい戯言でしょう。でも、思うんです。これを聞き切った私は聞く前の私と同じ“私”と言えるんでしょうか。
終