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㉗最終回~うちのなまこ知りませんか?~

1985年、広島を離れることになった僕は例によって仲間を集めてPARTYを開い­た。

タイトルは「うちのナマコ知りませんか?」
タイトルには意味はない。しいていえば、K宮君と僕がよく呑みに行っていた呑み屋さんのなまこに病みつきになっていたので、バンド名を「ナマコ」にしたことと、当時流行っていた「うちのタマしりませんか?」をぱくっただけ。
「なまこ」は当時ほぼ同棲状態だったベースのK宮君と、その頃とても慕ってくれたギタリストの故S崎君、通称Sちゃんを中心に結成した。
まさかこのバンドでこのあと、数々のライブをするとは、そしてSちゃんが亡くなってしまうなんて夢にも思っていなかった。
ヴォーカルにはI丸君とN君、キーボード関係は、Tさん、Yちゃん、M君が参加してくれた。

飲み食いしながらの演奏つきというかほとんどLIVE。
「オープニング」「なまこ」「またしてもキャメル・キャラメル」「なまこ歌謡祭」
「エンディング」という怒涛の4部構成での演奏。



いよいよ、広島最後のPARTY。音楽仲間や友人、そして恩師にも来て頂いた。

1985年2月23日(土)サウザン。

みんなの笑顔に囲まれてPARTYは始まった。

#1 オープニング、開会の辞からロックンロール。

Vo:N君&I君

Gt:Sちゃん&H

Bass:K宮君

Key:Tさん&Yちゃん&M君

Dr:Rakuda

送辞と答辞。笑いの開会の辞からの元気なロックンロールで、会場のボルテージは上がる。ロックンロール最高!


#2 またしてもラストフライト


次のコーナーはチケットにも「幻のキャメル・キャラメル復活!?」と記載されているが、解散コンサートや解散記念自主レコードを作って解散した「キャメル・キャラメル」の「またしてもの」演奏。ベースはK宮君が替わりに弾いてくれて、大阪に就職したもうひとりのギターY君は不在でH君がひとりで頑張った。

みんな黒で統一してドレスアップしてる。ツボ君のスカート姿はなかなか見られない。
唄うことに悩んでいた、ツボ君とてもいい笑顔で唄っていた。


#3 なまこ歌謡祭


続いてのコーナー。チケットでは「歌謡POPSベスト10」となっていたが「なまこ音楽祭」に変更した。

当時のいろんな仲間が唄ったり演奏してくれている。

想い出のPOCONを真似したものだ。


エントリーナンバー① 女子高校生 Rakuda軍団 #抱いたお前の腰がチャチャチャ
エントリーナンバー② A君 #酒と涙と男と女

エントリーナンバー③ ツボくん #桃色吐息

エントリーナンバー④ Sさん&Tさん #忘れていいのよ

エントリーナンバー⑤ N君 #涙のリクエスト

エントリーナンバー⑥ Mちゃん&K宮君 #こんな気分じゃいられない

エントリーナンバー⑦ Aちゃん #ウェラム・ボートクラブ
エントリーナンバー⑧ N&Tちゃん #暗闇でダンス

この歌謡祭の審査員がすごい。当時の広島音楽のリーダー的な人たち3人で僕はとてもお世話になった。I葉さん。故U原さん、故Mさん。
Mさんは、西条秀樹のバックバンドをされてたし、こんなやかましい催しに店を快く貸していただいたサウザンのNさんも元ミュージシャン。

本当にありがたい。厳しくも優しい先輩達に恵まれた僕は幸せだ。

エントリーナンバー④で唄ってくれたS井さんについて。

S井さんとはまだドラム教室の生徒の人数も多くない頃、「昼までですむから」と惣菜の配達のバイトを勧められ、そこの会社で知り合った。

ヤンキーオーラ丸出しでミュージシャンとは天敵なはずが何故かとても仲良くなり、僕達のバンドを応援してくれて夜中から仕事があるのにいろいろつき合ってくれた。

僕達が合宿したりする度に刺身の盛り合わせを持って来てくれたり、運転手をしてくれたり(もと暴走族なので抜群の技術!)麻雀したり、とても大切な友人のひとり。
S井さんはキャメルキャラメルのピアノ担当のTさんと「忘れていいのよ」をデュエットしてくれた。まだ小さかったS井さんの愛娘の、Mちゃんが耳をふさいで泣いてしまったシーンが映像に残っているけど、このMちゃんも今では子供を産んでS井さんはおじいさんになった。 好々爺。だけど怒ると怖いよ~~~

S井さんは今でも毎年年末になると豪華な「魚セット」を送ってくれます。
こんなやつ↓


エントリーナンバー⑥でドラムを叩いてくれたN君について

広島にいた頃、僕は東広島という街でもレッスンをさせてもらっていた。

西条プラザというビルの中に教室があって、そこに習いに来てくれたのが彼。

ドラムというか音楽と向き合う姿勢にとても好感がもてたのを覚えている。

週に1回のレッスンだったが広島から電車に乗ってレッスンに行くのはこういってはなんだけどちょっとした小旅行気分で楽しかった。

この街ではフィリピンバーとバーのオーナーもレッスンに通ってくれてこの方達も優しくていい方達でしたがやはりある種の怖さはにじみ出るもので、N君のレッスンになるとほっとしたものだ。

そのN君がドラム講師になったことは知っていたが、なんと毎年発表会を開催して今年で20周年ということでちらしと手紙をおくってくれた。
僕に対するN君の思いと、20周年記念の発表会で演奏してほしいという内容だった。


勿体ない言葉を頂いて泣けた。

彼は現在、N-studioを立ち上げてレッスンだけでなくPAや録音など地元ミュージシャンと楽しい日々を過ごしているらしい。
しかし、僕はこの時、体調不良で発表会には行けなかった。

こんな、温かく熱い誘いに僕は答えることができなくて、それがずっと心の隅に棘のようにささっていた。
やっとN君に会えたのは、2016年。広島で行われたセッションに(故Sちゃんの追悼を込めたナマコとファンシーフリーでの演奏)参加した時。
じつにこのPARTYから31年もの月日が流れていた…


このN君がドラムを叩いたこの曲で 唄っているのはMちゃん。Mちゃんもドラムの生徒だったが自分のバンドではヴォーカルをしていてなかなかいいノリをしている。
彼女は僕達のバンドのLIVEチケットをたくさん売ってもらったり、ファンクラブを作ってくれたりと、いろいろとお世話になった。

ZizZagやファンシーフリーのファンクラブを作ってくれたMちゃん率いる女子高校生軍団をはじめ、ZigZagのT君もドラムを叩いてくれている。

うちの奥様も叩いている。

普段はキーボードを弾いてるYちゃん、普段はドラムのN川君、バンドをいつも応援してくれたSさん達が唄ってくれたり、ほんと楽しかったなぁー。

僕はこういうの大好きだ。

#4 ナマコはここにいた

PARTY最後のコーナーはタイトルアンサーで「ナマコはここにいた」。

当時僕は中広に住んでいたが、近くに何軒かの呑み屋が長屋のようにつらなっている場所があった。

初めて連れて行ってもらったのは、広島では大御所のKさんのスタッフの方達で、深夜こんな場所でこんな時間にあいてるんだとびっくりした。

ちょっと怪しげな(?)雰囲気なんだけど、これが何を食べてもうまい!

僕とK宮君はそれから何度も足を運び、冒頭にも書いたが、なかでもこの店の「なまこ」のとりこになった。

はじめは怖かった大将も僕達がいつも同じものから食べるのでカウンターに座ると、にこっと笑いながら「なまこ」を出してくれるようになった。

「ナマコ」というバンド名はこの店の「なまこ」が大好きだったからつけた。
急に1週間くらい休むので店の前までいってがっかりしたこともあった。

僕は(たぶんK宮君も)「中ちゃん」とともにこの店の事は忘れられない。

最後に「Isn't She Lovely Lyrics」をみんなで大合唱してPARTYは終った。

僕は、広島を離れることをすっかり忘れてこの時間を楽しんでいた。

*****
翌日、部屋のチャイムが鳴ったので、出てみると、I丸君がいた。
彼は、「PARTYに誘ってくれてありがとう」と少し恥ずかしそうに言った。
えっ?わざわざ言いに来てくれたの?
いやいや、無茶苦茶なスケジュールのなか、大変だったと思うし、あんなに盛り上げてくれてこっちこそ感謝しているし、しなければいけないのに?
ほんといいやつだなぁと改めて感激した。

↓無茶苦茶なスケジュール


それから引っ越しの準備をして、旅立ち前夜、友達を集めてすき焼きで一杯やった。

狭い部屋でワイワイやりながら、呑んだ。
今思うとよく苦情が来なかったなぁと思う。
こういうこと好きで結構やってたのにな。
翌日、「雀」にらーめんを何人かで食べに行き、さよならを交わす。

実家に帰る時、つきあってくれたのはK宮君。
彼と初めて会ったのは、ヤマハの録音スタジオ。
こんなかわいい子がベースを弾くのかというのがみんなの第一印象。
が、ベースはなかなかの腕前で、性格もほんわかしていい感じ。
意気投合した僕たちはファンシーフリーというバンドを組み、他にもヤマハのコンテスト、ビクトロンの発表会や友人のバックバンドなどを一緒にした。
彼は、当時まだ大学生で、市内からは結構離れていたので、一緒に呑んだ時は僕の部屋に泊まっていた。そのうち合鍵もわたした。
ちなみに当時つきあっていた今の奥さんの水着姿を見たのは彼だけだ。
だからなんだという話だが、それほど仲がよかったし、一緒にいた。
練習して、呑んで、昼頃起きてという生活をふたりでしていたのだ。

で、地元に帰る時は、高速でなく、下の道を通って、いろいろな場所に寄りながら、のんびりと帰ろうということになった。
当時乗っていたワゴンの後ろのイスを倒して、その上にマットレスを敷いた。
これは思ったより快適だった。
出発は深夜。
その頃、ファンシーフリーでヴォーカルをした、Aちゃんはラジオ番組「火曜ステーション丑三つ時」でパーソナリティをしていた。

僕たちは、放送禁止用語も交えてその番組をハイジャックし、深夜の広島の街を出発した。ほんと、申し訳ない。こんなことばっかりしてるから子供たちに「自分のあの頃よりよっぽどマシだな」と本気で叱れないのだ。

話がそれたが、僕達の旅はこうして始まった。
昼は、お城や名所に気が向いたら行く。パチンコして勝ったら、少しの贅沢をして、車中泊。銭湯を探すのも、スマホなどなかった時代、どうやって探したんだろう。
僕たちはその日、あったことを録音しながら、のんびりと旅を続けた。
途中、大阪ではToToのコンサートにも行った。
大阪湾を眺めながら「悲しい色やね」をかけて笑いあったり。

一番、記憶に残っているのは、六甲山の車中泊。
夜の六甲山から見える夜景はとても綺麗だった。さすがは1000万ドルの夜景と言われるだけある。1000万ドルの夜景は違うか?
ドライブする車も多く、ほとんどカップル。ワゴン車、男ふたり組なんて見当たらない。
夜景が見えるとこで車を止めてたぶんイチャイチャしてる。
僕たちは、今日の寝床を探してるのだが、そういうわけでなかなか見つからない。
やっと、見つけてしばらく缶ビールを飲みながら夜景を見て寝た。
朝起きて、車を降りたK宮君が「Rakudaさん、これ見て下さいよ」と言う。
「なに?」
そこには、素朴な牛乳瓶に花が飾られポツンと置いてあった…

たっぷり時間をかけて、いろいろな街を眺めて実家に着いた。
が、別れがたい僕たちは、荷物を降ろして一泊しただけで、さらに東に向かった。
もう、K宮君にも残された時間がなかったので、鎌倉と横浜に行った。
中華街に入ったが、まるで香港マフィアみたいな雰囲気の店だったので怖くなって一皿の餃子をふたりで食べただけで店を出た。
鎌倉や横浜を散策して実家に戻った。
駅のホームで僕たちは握手をして別れた。

僕は、やっと両親との約束を果たしに父の跡を継ぐ為に実家に帰った。
じつに6年もの歳月が流れていたが、この6年は僕の宝物になっている。

***
「遠い記憶」はこれでおしまいです。
読んでくださった方、どうもありがとうござした。