中途半端だから、出来ること

とある講義を受けている中で聞いた事例のなかで思ったことがあった。

その例とは、東大生がどうすれば子どもが出来るかを知らなかった、という極端な例であったのだが、「極端」と言われて、自分を中途半端だと思うことがしばしばある自分としては、自分との対比をしてみたくなった。

例えば、この例で言うところの子どもの作り方は知っている。これは保健体育の授業でやったじゃん、という話もあるが現在の保健体育の教科書でどこまでその行為を想像できるかは分からない。結局自分で情報を得ていくことになるのではないだろうか。

「自分で情報を得ていく」ことをするには、時間が必要である。一定の自由な時間が確保されていると、その中で新しい発見をするものである。小さい頃から塾に行かせることが悪いわけではないし、習い事を多くやらせたりすることも良いことを多く含むと思うが、子どもが勉強やスポーツばかりに熱意を向けているとおろそかになるものが増えてしまう。

先ほどあげた例は、「主要教科」といわれるものに力を入れすぎた結果だろう。講義の中では「生活力の低下」という表現もあった。この「生活力」の多くは、副教科において養われるものである。しかし、「副」と言われてしまっているため、あまり重要ではないとされてしまっている。

こういったことの大切さは、伝えられるのは中途半端な僕らがやれることではないだろうか。程々に勉強し、別のことにも手を出している人々が適しているのではないだろうか。

などとということを考えた。



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