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#205 等身大の自分が望むもの

若い頃はいろいろなものに憧れていた。
大都会のど真ん中にあるタワマンに住みたい。
常に最新のガジェットを持っていたい。
高級レストランで食事をしたい。
飛び切りの美人にモテたいという下世話な欲を持っていたこともあった。

そんな欲まみれだった若い頃。
僕は、いったい何のためにそれらが欲しかったのだろう。
考えを巡らせてみたが、それらを本当に欲しかったわけではない。

ただ他人に「凄い」と思われたかっただけだった。

虚栄心は原動力にはならない

僕は小さな頃から虚栄心の塊だった。
モテてもいないのに「自分はモテる」と年下の友達に自慢していたし、
親のおかげだというのに外国へ旅行に行ったことを自慢していたし、
就職活動も誰よりも早く終わらせて、能力の高さを自慢したいという気持ちを持っていた(結果的に適応障害になるわけだが)。

とにかく何かを自慢したいと思いながら若い頃は生きていた。
さまざまな憧れを持っては、それを手に入れた自分を妄想した。

だけど、それらは憧れと妄想の域を出なかった。
結局、虚栄心は行動の原動力にはならないのだとある時悟った。

「凄い」と思われたいだけだった

タワマンに住みたいだとか、女性にモテたいだとか。
自分が虚栄心まみれであることを悟った瞬間、金ぴかに輝いていたそれらの憧れが一気に錆びついていった。

それらを本当に望んでいたわけではなく、自分の自慢できる要素を一つでも多く持っていたいだけだったのだ。

タワマンに住みたい、ではない。
タワマンに住んでいる自分を「凄い」と思われたいだけ。
女性にモテたい、ではない。
女性にモテることを他人から羨ましがられたいだけ。

ハリボテの憧れが一気に崩れ去った瞬間。
僕はいったい何がしたいんだろうと、本気で悩んでしまった。
長いこと承認欲求の奴隷だったから、等身大の自分がわからなくなってしまったのである。

もちろん今でも虚栄心や承認欲求がゼロではない。
だが、少なくとも若い頃よりは確実に等身大の自分でいられている。
等身大の自分というのは、あまりに素朴だった。

書いて、読んで、それで幸せ

かつての僕は友達との約束が入りまくっていたり、恋人との予定がたくさんあったりという日常こそ幸せだと思っていた。
だが、結局それも「予定が入っている自分」を自慢したいだけだった。

つい先日のこと。
その日は、誰との約束が入っているわけでもない休日だった。
読書をし、noteの記事を書き、エッセイを書き、小説を書き、また読書。
「書く」と「読む」が大半を占めていたわけだが——

とてつもなく、幸せだった。

そうか、自分は読書と執筆さえできれば幸せだったんだ。
それを幸せだと思えた自分が、一番「自分らしい」と思えた瞬間だった。
もちろんそこに音楽やコーヒーがあればもっと素晴らしくなる。
だけど等身大の自分が望むものは、あまりにも素朴だったのだ。

お金持ちになりたいとか、異性にモテたいとか。
そういう手の届かない憧れは、もういいや。

ただ書いて、ただ読んで。
それができれば幸せだ。

ただ、今持っている自分の欲を述べるならば、
もっとたくさんの本が読みたい。
もっとよい文章を書けるようになりたい。

それが、等身大の僕が望むものだ。




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立竹落花
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