甘えられたらいいなとも、強くいられたらいいなとも思う

夜の繁華街を歩くと、全身で誰かに甘えている人を見かける。
だいたいがお酒が入っていたりして普段よりも鈍った思考を抱えていて、その行為も鈍った思考の産物だったりする。

こういった景色について、見るに耐えないなんて声も聞くけど、私は素直に羨ましく思う。
その中にはきっと、私が飲み過ぎを後悔するみたいに、翌朝後悔する人もいるのだろうけど。

物わかりがいいように振る舞うことで私は自分のことを守っているのだな、と気付いたのはいつだったか。

私の友人にもいる。
全身で感情を表せる彼女が、眩しくて尊くて可愛くて、少し憎く感じたこともあった。
うそだ。
いまも、憎く、羨ましく感じてしまうことがある。
そのたびに自分の浅ましさを実感する。

手放しで誰かに甘えられること、甘えを分け合える人が存在すること、甘えを許されるまでの関係を築くことができること。

どうしてみんな、当たり前のように他人と分け与えられるのか。
彼女のような人たちは、分け与えることもいとわず、分け与えられることにも躊躇がない。


言いたかったけどうまく言葉にならなかったこと。
しかたないと受け入れたこと。

全部本当はのみこめてなんかなくて、心に澱のように居座っていて、ふと思い出したみたいに傷が主張してくる。疼く。

でも、たまに私はその傷を誇らしく思える時がある。その瞬間はふと現れる。私が私であろうとして、強くいたいと思って、強く在ったこと。在りたいと思って踏ん張ったこと。
そういう過去の私の記憶が、逃げ出したいときに今の私を助けてくれることがあるのだ。
これも本当で、どちらも、私の感情だ。


日が暮れるのが早くなると、考え事をする時間が増えるから困りものだ。
早く帰ることのできるこんな日は、好きなスイーツでも買って帰ろうと思う。

なんにも解決していないけど、夜が長い季節がこれから始まる。
今すぐ解決しなきゃいけないわけでもないか、と開き直ってみる。
神様でもあるまいし。

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