『檸檬』著・梶井基次郎を電車の中でちょうど読み切ったんです。変化する読書【No.7】
『檸檬』は高校時代に教科書で読んだのが初めて。
今回はおそらく二回目。本は持ってたんですが、それを開くのは初めてでした。
学生時代の国語の授業は苦手だった
私は学生時代から、どうやっても同じところにたどり着く物事より、明確に答えのないものの方に魅力を感じました。
だから、私の脳みそは完全に文系でふわふわしていて、数字は苦手だし、必ずそれでなきゃダメって、私には性に合わない。
高校2年生の時、古文の先生がこんな話をされました。皆さんも似たような話を聞いたことがあるかも。
皆さんも一度は聞いたことがあるような話ですよね。
当時、教室でその話を聞き終わった時、周囲のクラスメイトは「なんじゃそりゃ」という感想が大半でした。「結局のところ何が言いたいの」と誰かが尋ねたとき、「ああ、台無し」と思いました。
「全く、起承転結や物事の揃い切ったお話にしか関心を示さないのね、みんな、分かってないんだから」と、偉いそぶっていました。お恥ずかしい過去。
上から目線な態度は改められたと思っていますが、不足されたようなお話が好みなのは、全くもって健在。
高校時代の国語の先生曰く
『檸檬』も高校2年生で授業に登場しました。
先生が教室を歩きながら、文章を音読してくれていた気がする。
読み切って現代文の先生は一言、「この人はちょっと日本語の使い方がおかしい」と。
もう!あなたがそういうと、それが正解になるからやめて!と心で叫んでました。
面白半分に言ったことなんでしょうけどね。笑
今回、久方ぶりに『檸檬』を読んで。
これぞ、自身のための文章だ!と感じます。まだ偉そうな私です。
稚拙ですが、私も文章を書くようになっていつも感じるのは、自分の文章は不足が多いのです。
書かないと伝わらないけど、書くと風情がないような、色気がなくなるような、趣がないような。でも伝わらない。上手く書けない。ああ。
『檸檬』も不足のある文章といえば、そう。しかしよ。
どうして、こんなに心のままに書いたような文章で、ちゃんと読み手に情景が伝わって、人物の心の表裏もわかってしまうのか……。しかるべき、不足。
しかるべき不足があってこそ、矛盾のないものはそれは自分のための文章だろう。と電車に揺られながら考えました。
いつか私も、心地よい不足を言葉にできる人間になれるでしょうか。なりたい。
昔読んだ本を、今、読み返してみる
当たり前ですけど、6年も経てば考え方も変化するでしょうし、価値観も変わります。
本って、自身の考えの変わりようを勝手に記録してくれるから、私は読んだ本はずっと手元に置いておくタイプです。
今読んでいる本も、時間が経てば変わった読み方ができるのかなあ、とちょっとだけ老いぼれることに希望を見出しています。
ではまた。おやすみなさい。
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