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独自センサー尖らせて

 地元の九州で中学校三年間を共に過ごしただけだけど、彼女は私にとっての唯一の親友で、おそらく一方が他方の葬式に参列するでしょう、という具合のつながり。
 まるで両手を広げて歩いているような彼女と、肩をすくめて周囲を盗み見るように歩いている私は、まるで両極ですが根本は似てる様子。

 定期的に連絡を取り合っている私たちは、この夏、私が長く居座る東京で会うことになりました。
 約一年半ぶりの再会。彼女はこれまで就職活動に勤しんでいましたから、内定祝いも含めての散財。とは言っても安い酒と、肉の塊たちと、味の濃い惣菜で六時間(夜中二時まで)語るのは、私達の恒例ごと。

 私は、親友というのは人生で彼女しか存在したことがありませんから、どうして彼女とは会話が止まらないのか、理由は分かりません。ただ、母親に対してと同じ声のトーンで話していることは明らか。
 こういう存在って、生まれてから死ぬまででどれだけ巡り会えるものでしょう。ちょっとや、そっとでは、離れ難い。

 だから、ということでは無いですけれども。
 悲しく思ってしまうのは、「ああ、違う人生を歩んできたんだなあ」と実感する瞬間。まあ、当たり前なんですけど。

 彼女は、その人生で女性の社会進出の難しさ、ジェンダーに関する諸問題に関心を寄せたようで、大学では(定かではないが)「社会問題に関して、その解決方法を模索する」……感じのサークルに入っていたようです。
 ちなみに、彼女の就職先もホームページを拝見しましたが、私にはよう分かりませんでした。彼女曰く、「SDGsっぽいやろ」とのこと。

 しかし、彼女はコンビニで買った豚肉スパサラダの容器を洗いもせず、箸も含めて蓋をして、ビニール袋に包んで燃えるゴミで捨てますし、私の好きなインフルエンサーを見た目だけで毛嫌いしているようです。私はそっと分別し直して、一人で動画を楽しみます。

 中学校を卒業して、違う環境に身を置いて、違う人間と関わってきた私たちは、もちろんですが大切にしているものも違いますし、重きを置く点がことなることも知っています。
 それでも否定し合わず、笑い合って生きていけていることに、私は諸問題の大小、貴賤無しにあらゆる物事の解決方法を見出しています。

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