多分、今年梨を食べるのはこれが最後だと思う
長すぎる夏に飽きようやくこれが秋なのかもしれないと思う過ごしやすい気温がやってきた。
そんな折にスーパーで見かけた梨。
よく知らない時期の梨を何の気なしに買ってきた。
もう好きな幸水も豊水も時期が終わってしまったあとで、10月に売っている梨ってどんな味がするのだろう、そういえば食べたことがないかもしれない。
そんな興味本位、好奇心、あとはまた来年まで少しの別れが名残惜しくて。
たったそれだけのために散財をした。
私は果物の中でもかなり梨が好きな方だ。
勿論他にも好きな果実はあるが、梨が食べられる期間は限られていて冷凍ものや缶詰なんかも普及していないのでなんだか希少価値がある。
その分だけ少しばかり贔屓の気持ちがあるのと、あとは味に結びついた記憶だと思う。
正直自分の知る果物の中で、梨食べてる時が一番「水菓子」という呼び方を実感と共に感じるみたいなところがある。
小学校のある時、国語の教科書で一部だけ読んだ夏目漱石のこころの続きがどうしても気になり少ない小遣いを握りしめて近隣の本屋で日焼けした文庫を購入した。
自分としては少女漫画を買うのと同じように探したのだが、なかなか見つからず「夏目漱石」のナ行から探して「こゝろ」と書かれたタイトルを見つけた。岩波文庫のものだったと思う。
当時の私は踊り字すらも知らなくて、これ…こころだよな?なんか斜めだけど「こ」の字の斜めにしたやつっぽいし…などとアホなこじつけを考えながらそれが「こころ」であると推理した。
今思えばこの無学な小学生時において初の踊り字との遭遇が「こ」の字であったことは、踊り字の意味を間違えている時点でとんでもなく幸運だったと思う。
中をぱらぱらとしてみればよかったのに、なんだか怒られそうな気がしてできなかったのだ。
そんな緊張の本探しから帰宅し、急いで中を読み漁った。
それは間違いなく、私の探し求めた「こころ」全編だった。
内容については良く知られたあの結末なので、子供心に「そんなこともあるのだな」と思った。
そんなことというのは、「自分で言った手前後に引けず追い詰められると、とんでもない恥ずかしさで死ぬしかなくなることがあるのかもしれない」という、親に生真面目(当時意味はよくわかっていない)と言われたことのある自分はなんだか冷や汗をかいた記憶がある。
手放しで面白かった!すごい笑った!という意味でなく、のめり込むように読んでしまったという意味で、こころはとても興味深かった。
それと同時に、本文の中に出てきた水菓子(果物のこと、と教科書か文庫かどちらかに注釈か何かで書いてあって知ったと思う)を異様に味わいたくなってしまった。
直後から母の回りにまとわりついては「水菓子!水菓子食べたい!何なら食べられる?昔の水菓子!」と狂ったようにねだってしまった。
母はまた何かどこかで影響されたのだろうな、という顔で見て、一週間の買い物ついでに梨を買ってきてくれた。
皮つきで切られた梨を見て「水菓子?」と聞くと「水菓子」と帰ってきた。
当時梨を食べたのは決して初めてではなかったような気がするのだが、なぜだか味の印象は薄く「なんだっけこの果物…」と思いながら口にした。
その瞬間、シャクっとした食感と同時に口の中いっぱいにじゅわっと水と甘みが溢れ出て、子供ながらあまりの美味しさに感激した。
水菓子、水菓子、と要求する我が子に、ただ自分も食べたかった果物を買ってきただけなのか、それともスーパーで少しは水菓子を求める我が子の口にふさわしく瑞々しい、水の菓子と呼べそうなものを少ない予算の範囲で見繕ってくれたのか。
今となっては聞く機会があっても覚えていないかもしれないので聞けてはいないのだが。
とにかくこの時の母のチョイスはさすがと言わざるを得ない。
「昔のは今ほど甘くなかったっていうけどね。そんな果物よりさらに甘くて美味しいものが少なかったってばあばとかが言ってた気がする。まぁでも、駄菓子とかスナックとか普通にある今のお菓子との差を考えるなら、このくらいおいしくなって分はあってもいいんじゃない」
言いながら台所に戻り、スプーン一杯の安っぽいラクトアイスを掬って持ってきた。
「あとは明日の分ね」
私の座る畳の横には、「こゝろ」が置いてある。
きょと、とそのスプーンを見て「母はこころを読んだことがあり内容を覚えているのか…!」と理解した。
奥さんの水菓子とアイスクリームを体験させようとしている。
スプーン一杯のアイスクリームを頬張り、母に「これいっぺんに出すのは結構お金持ちだね」と言った。
「そう、だからうちではやりません。果物も滅多に出ません」
我が家の残酷な経済事情をつきつけられる。ガーンと衝撃を受ける我が子に「今日は勉強代」とも付け加えた。
(なるほどな、確かに人を住ませることができるってお金持ちだ)
本の中の世界の、解像度が広がる。
踊り字も読めない子供だが、ちょっと本を理解したような満足感を得た。
それ以来、私は梨という果物が好きだ。
一年に一回は、いや季節のうちに何度も食べたいと思う。
10月の梨は少し皮が硬くて、じゅわっと水の滴る感じは控えめ。
これはこれで味があると思ったが、夏場の梨が恋しくなった。
来年、また梨を食べようと思う。
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