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くじら

ーありがとう。とってもたのしかった。とってもたのしかったんだ。会いたかったんだ。ー

暗い底から水面を見上げていた。きみと共鳴して映るひかりは、宝石の反射のようで、色とりどりの星が瞬くようだった。

氷のような冷たい粒が降ってくることもある。鋭く透明で、水面を裂くように落ちてくるけれど、ここは暖かいからほろほろと解けていく、ダイヤモンドの砂が降ってくるように。
きみは知っているのだろうか。暗い底にも砂浜があるんだ。きみは知っているだろうか。降り積もったダイヤモンドの砂浜もまた、きみのひかりに共鳴して透明に輝き、水面を照らし返していることを。

ーこの水面は帷のようだ。いつか開くときはくるのだろうか。ー

          * * * * * * *

吹きぬける風につめたさを感じるころ、髪を短く切りたくなる。はらはらと葉が落ちていく様に魅せられてしまうからだろうか。大きな道路から赤い鳥居を抜けて細い通りへ外れると、軒が連なる商店街へ出る。連なる店のほとんどは、陽が落ちてからの開店で、アーケードで薄暗い昼間は人通りがない。
私は、hair worksと書かれた膝下ほどの低い立て看板を目印に、現れる階段を登っていく。

淡く短くなっていく陽の光に合わせるように、私のなかもどんどん褪せていくようだった。黒で塗りつぶされるより残酷に、じわじわと色が失せていく。
まるで透明な帳でも張られているみたいだ。帳をスクリーンのようにして映し出される景色は、煙のように散り、この手では掴めず、いつまでもどこへも辿り着けない。

鋭い刃の交差する音が耳元で囁くように鳴る。オーナーの手からはらはらと私の髪が落ちて行く。
はらはらと、はらはらと、断ち切られる音は、波紋を描くようにどこか深くにやさしく触れる。この波紋はいったいどこへ響いていくのだろう。
耳を澄ませることができたなら、響き渡るその先へ、音を辿っていけるだろうか。

オーナーは、私の望みにまっすぐと潔く応えてくれた。鏡を使い、調えられたうしろ姿を見せてくれた。
「ありがとう」
「良いお年を」

店の扉を開けて、オーナーが見守るように私を送り出す。階段を降りる足元は、タンタンッと軽い音を響かせる。陽はすっかり沈んでしまって、店から溢れるひかりだけが煌々と明るい。
背にする明かりはどんどん遠のき、タンタンッと自分の足音を辿って、階段を降りて行く。

            *

次第にたどり着いた足音の底は、さらさらと拡がるやわらかな砂浜を踏んでいる。瞬く星の光を映す海は、しずかな歌声のように波音を立てる。


           * * * * *

水面がなにか跳ねたように見えた。揺らいだところからきみが沈んでくる。足を滑らせ落ちたのだろうか。それともきみは、飛び込んできたのかもしれない。

           * * * * *


やさしく押し寄せる波に誘われるままに素足を濡らし、上半身を滑らせたら、思い切り両脚で水を蹴った。包まれるように深く深くに沈んでいく。
大きな大きな背が抱くように私を受け止めた。この海と同じ、星空を纏うその大きな背は、私を乗せて泳いでいく。

            * 

瞬く星の光を映す海はいつしか空との境を失って、底に降り積もっていた砂浜は、光る川のように舞っている。         

            *

私を乗せる大きな大きな背のぬくもりに、私は、私という輪郭を、溶けるように失っていく。大きな背に抱かれて、海と空とが境を失ったように、私もまた、滔々と、およぐ。
それはやさしい歌声のような波を立て、響き渡る。瞬く星のひとつひとつにそっと手を触れるように。


    ーありがとう。たのしかったんだ。ー

            *

タンタンッと階段を降りたら、いつものように振り返り、オーナーと軽く頭を下げ合った。陽が暮れて、連なる軒にはあかりが灯り、ひとが来るのを待っている。私は、赤い鳥居を抜けて大きな通りを駅に向かって歩く。
私の真ん中の奥深くから滔々と溢れるように、抱かれるぬくもりが、波のようにからだ中を伝う。
私は、星空を纏う。









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