収容所から出る
原家族や自分の過去、そして病との取っ組み合いを続けてきたのだけれど、それらがあっけなく去ってしまった。なんて長い日々だったろう。どれだけの時間を費やしたろう。まだ複雑性PTSDという病はうずくけれど、格段に良くなった。
ものを書けなくなって約、十年。詩を再開し、それらの詩と書けなくなる前の掌編を力づくでまとめた詩集「うみのほね」によって、憑き物が落ちた。相当数、まるで血で書いたような詩も入れて、その詩集を、大切なお金で買ってくださった方がいらして、つながりもできて、私は過去を恨めなくなった。
それから出産したということもとても大きい。どんなに自分の過去が憎くても、この子が生きてここにいて思い切り泣いたり笑ったりしてくれているということは、私の人生を、あまりにもあってはならなかったこと(被レイプ体験や友人の自死)を除いて、肯定してあげることとなった。
ついでに優秀なセラピストとの不思議な出会いがあって、人格統合した。解離性人格障害には長年気づいていなかったが、どうも大人の私の中に、虐待が始まったころから夢に閉じこもっていた小さな子がいて、大人の私と子どもの私がかなりバラバラになっていたらしい。その小さな子の感情表現が自傷行為だったらしく、新しく傷をつけることがなくなった。今年の夏、二十年ぶりくらいに半そでで町を歩いた。
色んなものから解き放たれた。父はまだ存命で少しの確執はあるが、父も治療に通うようになり、主治医から父から私への接近禁止命令が出て、かえってうまい距離感がとれて、俯瞰してあの頃を眺めるようになった。フラッシュバックや記念日反応はまだあるが、長年で慣れた。
いま、私は自由、どこにでも行けて、なんでもできる。大量に服薬していきていたころの後遺症として体の弱さが残っているが、過去一度もなかった軽やかな状態だ。
それなのに私の暮らしぶりにはあまり変化がなくて、まるで縛られたように、ごくごく近い場所の行き来で完結している。
こころの収容所にいた時間があまりに長すぎたかな、という妙なおかしみがある。今の私は、収容所で起きた、激しく、苦しかった日々を、けれども、その中で見た焼けつくように美しい景色と共に振り返って、抱えて歩き出したい、と。
実感として、少し恐ろしいんだ。なにしろ子どものころから収容所暮らしのほうが長いわけだから。収容所で暮らしたことのない人との温度の隔たりがありすぎて怯むこともある。
でも、歩き出さなきゃ、そうして、今の私にしか書けないものを書かなければ。自己模倣は捨てなけりゃ、ならない。
人の闇の面も反吐が出るほど出てきたけれど、その中に輝きを放つ星々のような面も見てきたから、私は生き延びてきたのだから、いろんな絵の具を持っているはず。これからは、明るい、優しい色で物語を書くことだって、きっとできるはずなんだ。
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