単なる一つの気分としての鬱

ずっと抑鬱気味でいる。人と元気に話すことはできるし話題によっては大いに盛り上がることもできる。家族と観るテレビでも馬鹿笑いできる。しかし抑鬱が晴れないでいる。いつ何時なにをしていたとしても、心は碇に固定され、海面から顔が出るかどうかのところで辛うじて息をしている。
鬱状態が深刻なものとなり心療内科にかかったのが二年前。そこから半年程度薬を使ったり使わなかったりして、なんとか受診時に抑鬱エピソードを話題に上げることがなくなるまでになった。それで気分は安定したものと思っていた。実際気分の揺らぎは減ったのだが、思い返せばそれは単にちょうど海面のあたりからそれ以上沈みにくくなっただけで、依然抑鬱的であることには変わりなかったらしい。
大鬱を含め気分障害を患った人が口をそろえて言うのが、「一度罹ったらその気分と一生付き合うことになる」という言葉だ。治癒はなく、単に寛解しただけ。この言葉を真っ向から受け止めて理解できたことは、鬱状態を通して得た、数少なくも価値の高い経験だろう。実は、シーザーを理解するのにシーザーになる必要はなくとも、シーザーを演じるにはシーザーにならなくてはいけない。(これは「狂人の真似とて大路を走らばそれ即ち狂人なり」ではないか?)
別にショックではない。それは自分にその覚悟ができていたからかもしれないし、抑鬱によって感動を押さえられているからかもしれない。いずれにせよ、感情が行動を振り回すこともなく、淡々と、抑鬱と付き合いながら生きていく方法について考えることができる。またそのプロセスによって抑鬱の程度を測ることもできる。例えば抑鬱が強くなっているときは自身の様々なハンディキャップを理由に生きられなくなるように感じ、社会が余計に憎くなる。そうなったら次の日の朝、自分がまだ動けるうちに心療内科の予約を早める。幸いこの一年半はそうなっていない。
別に海面を浮くか沈むかのところでぎりぎりを生きていること自体は苦しくない。抑鬱という気分そのものは悲壮感や怒りのようにそれ自身が苦しみを生むわけではないからだ。しかし動けなくはなるので、一切の休みを許したがらない社会へ他の"健常な"人たちと同じように進出してしまったとしたらと考えて、やりきれなくなる(休みとは、休日のことではない)(抑鬱がひどくなければ、それでも生きていく方法を思いつき、実行できる気がしてくる)。
抑鬱を短期的に予防する方法がある。自分を忙殺することだ。考える隙を与えてはいけない。忙殺すれば、夜間に眠りやすくもなる。ただしこれには注意点が三つある。まず、自分を忙しくさせるものを一つに絞ってはいけない。たった一つのことに集中し続けると、いわゆる燃え尽き症候群に陥りやすくなる。あと寝る時間に気をつけなければならない。自分は少しでも興味のあることすべてに手を出してしまい、平均の睡眠時間が六時間を切ってしまった。睡眠不足が心身に及ぼす影響は割愛する。最後に三つ目には特に気をつけてほしい。それが単なる鬱病ではなく双極性障害だったとしたら、この行動指針は躁病エピソードで説明される極端な行動を助長することになりかねない。自分は本当にただ抑鬱を持っているだけなのだろうか? 双極性障害の診断には長期を要し、鬱病との誤診も多いので、慎重に判断してほしい(医師に判断してもらうべきだ。躁病エピソードを自覚することは非常に難しい。大抵抑鬱から始まり、初めての躁転に(あるいは初めて躁転が発覚するのに)数年かかることもある)。

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