読みと迷彩(上級者編)
麻雀には迷彩とか読みといわれるものがある。
色んな語られ方をするのだがここでは、
「相手の読みを外すまたは逆手に取ることを目的に自己完結的最大効率未満の打牌選択を意図的に行い河に工夫を施す行為」を迷彩とする。
さらに読みというのも本来定義の広い言葉だが今回は
「捨て牌から相手が自己完結的最大効率の牌理で打牌選択をした場合に読み取れる情報を用いて打牌選択をする行為」を読みとしてみる。
迷彩の臨界点
迷彩は読みを全く行わない相手に対しては行う必要がない、というかやると損になる。筋を知らない相手に筋ひっかけしてるようなものと考えると分かりやすいかもしれない。
では相手が読みを完全に信頼している場合はどうか?
つまりこちらが絶対に迷彩をしないと考えている読む相手に対してどうかということだ。
迷彩を行うとき「自己完結的最大効率-迷彩を行った自己完結的効率」分の効率を損することになる。この損失が読みを完全に信頼している相手に対して迷彩を行うことで受け取れる利益を超えてしまうとその迷彩はどんな相手にも損になる迷彩ということになる。
この最も迷彩が利益的になる相手に対してすらこれ以上は損になる点、迷彩の使用レンジの最大点を「迷彩の臨界点」と私は勝手に呼んでいる。
また「迷彩で得られる利益-迷彩で受ける損失」を「迷彩実戦利益」と勝手に呼ぶがこれは相手に応じて変化する値である。
読みの最小信頼点
相手が全く迷彩をしない場合読みを最大に信頼することが最も利益的になるると考えられる。ただ迷彩実戦利益がどんな場合でも負になるのでなければ迷彩を行う相手にはある程度読みの信頼度を下げることが利益的になるはずだ。
迷彩の臨界点で迷彩を行う相手に対して最も利益的になる読みの信頼度を「読みの最小信頼点」とこれまた勝手に私が呼んでいる。
GTO的な考え方
もし上記の考えに矛盾が無ければ迷彩と読みの間には「どの程度迷彩をするか」と「どの程度読みを信頼するか」である種のナッシュ均衡のようなものが存在するのではないかと考えてみた訳である。
2人のプレイヤーが読みと迷彩を最善に扱う場合お互いが最も搾取されない選択を取ることになる地点を勝手に「霧島均衡」と呼ぶことにする。
既に提唱してる人がいるかもしれないが私は聞いたことないのでまあ許されるだろう、・・・多分。
最後に
この話が実践的に正しく語られることになるのは遠い未来の話だと思っている。はっきり言って現時点で勝つためにほとんど不要だもん、こんな考え。
もっと言えば
「じゃあ霧島均衡になる具体的な状況って例えばどんなものがあるんですか?」に対しては
「知らねえよ、んなこたぁ。」
となる。
感覚的にこんくらいじゃねえかなぁってのはあるんだけどそれが正解かどうかということは自分の能力範囲を超えているのだ。
なのでこれ読んで強くなろうとするのはやめた方がいいです。
・・・じゃあなんでこんな記事書いたんですか?
強くなるためにほぼ必要ない事でも考えるのが楽しいことってあるやん?
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