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【実家の介護未満】入院と転院と父たるものの心の中 2019.8.30

2023.9.18
今月亡くなった父の供養のために、過去のメモをシェアしています。今回は長編だが、最終的に予言。。。😱

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2019.8.30

初入院した時の話

先月末(2019年7月)に、父が足の傷の治療のため生まれて初めて入院した。この1ヶ月間の間の変化と気づき。

家にいるとき、父は一日中座ってテレビを見ている。すると足が浮腫んでしまう。足を上げましょうとか、動かしましょうとか、人に言われても頑として言うことを聞かない。たまに横になることすらしないから、足が浮腫みすぎて、そこに傷ができて悪化した。とうとう皮膚科の医師から「バイ菌が入って体に回ると大変だから、きちんと治しなさい」と薦められて、中くらいの大きさの病院の皮膚科に入院した。

約一カ月で、傷は順調に加速的に治った。お次は、家に帰れるようリハビリをするために、リハビリ可能な病院に転院する流れとなった。

皮膚科の先生は皮膚のことを第一に考える。入院中、何度もリハビリしてほしいとお願いして、家に帰るのを目標にしてもらっていた。しかし、治療のための入院は「安静」だからアンビバレントだ。

傷が治り、退院に向けてちょこっとリハビリをしたが1日数10分。ひと月も寝てたのだから、そりゃ起きるのはたいへんですよね。もともとパーキンソン病でもあるのだし。。。。傷は治っても、父の体は全体的にかなり衰えてしまっていた。

頑固のいいところ


話は変わって自宅にいたときのこと。
父の尊敬できるところは「勤勉さ」だ。朝9時にデイサービスに行くために、ものすごーく動くのが大変なのに、自力で毎朝6時に起きて、ゆっくりゆっくりシャワーを浴びて、身支度を整えて、ご飯を運んで、薬を30分かけて飲んで、、、なんてぇことを、もう何年も続けていた。今思えば、それが日々の自主トレだったのだなと思う。

それを見て、もし私が同じ状況になったなら、もう諦めて、ずっと前に動けなくなってるよなぁ、と、感心していた。。。

訪問リハビリの理学療法士さんも、頑固さゆえに、これほどの状況でもまだ自立して動けるのだ、と納得してた。
自分でチャレンジを見つけて、とことん勤勉に立ち向かう。

(だからこそ、1ヶ月も入院して自主トレ無しで寝ていたら、動けなくなってもおかしくない。)

勤勉な一方、父は他者からの新しい提案はすべて拒否する。提案の返事はいつも「無理だ」。。。その父にとって一番高い「無理のハードル」が「外泊」。その壁を今回の入院で乗り越えたことになる。ということは、無理が可能になり、少しは達成感もあるのではないか、と娘は期待した。今後のリハビリも、家に帰るため!と思えば勤勉に取り組めるかもしれない。

と、迂闊に思っていたわたしだった。。。。

俺はもうダメだ(そして予言となったこと)


しかし、昨日、退院の朝、退院する病院に迎えに行くと、久しぶりに私服に着替えさせてもらった父は、わたしの顔を見るなり

「俺はもうだめだ」

という。この間まで早く退院すると息巻いていたのに、どういうことかと聞くと、「立てないから、俺はもうだめだ」と。「86歳で死ねるはず、自殺しなくても死ねるはず。」などと突然、物騒なことを言う。そして、「そうしたら保険が降りるからみんな大丈夫だ」なんて言い出すのだ!ええー!?と、狼狽した。

「なにそれ? いま84(だと父は言い張るが実は83歳)なのだから、仮に言う通り86歳で死ぬとしても、あと2年あるんだから、そんな先のことより、今なるべく元気で生きたら」と無意味な理屈を口走るわたしでした。

そうか・・・。って言ってあげたらいいのにね。
すぐ言い負かそうとする。わたし。アホだわね。

でも、父は、一旦それを口に出したら気持ちは収まったみたいで、そのあとは機嫌よく、サクサクと転院先へ行き、これまでより少し狭くてワイルドな病室に収まった。

転院先のリハビリ病院

今度の病院は、こじんまりとしており、ご高齢の相手、ほんとに慣れてるの???って疑問を感じなくはないが、担当の看護士さんはいい人みたいでよかった。

父は着くなり、たくさんの検査を終えて、ご飯もバリバリ食べてたし、病院サバイバル能力が身に付いてきたようで、テレビで早速野球を見るからテレビカードを買ってきて、と前向きだ。

夜中に目覚めて気づいたこと


私は入院手続きを済ませ、その後、電車で実家の母に会いに行き、ヘトヘトな状態で自宅に帰り居眠り(爆睡)してしまった。

そうしたら、夜中の3時前に目が覚めてしまって、それから眠れなくなってしまった。

眠れなくて、いろんなことが思い浮かんできた。
夜は泥のように眠る主義だから、そういうことは最近なかった。

それで、父のことが浮かんできて、

ああ、そうか。
と、突然思いついた。

父は入院した当初は「早く家に帰る!」とか言ってたけど、病院のベッドで冷静に考えると
(俺はもう立てないし、みんなに迷惑かけるのは嫌だ)
って思ったんだろうな。
だから死にたいって思っちゃったのかもな。

保険金とか言って、(なに言ってんのこの人!?)なんてわたしは思ったけど、
いつも自分のことばかり言っていて、あんなに体が不自由になってしまって、外見は弱々しいおじいさんに見えていても、やっぱり一家の長として最後まで責任を果たすことを考えているのだな、と、

そんな、普通の人ならすぐわかるかもしれないことに、わたしは半日後に気づいたわけだ。なんてたって、冷血ドーターだから!
まったく冷たいこと言っちゃったな。。。自分も大変なのに、みんなのこと考えてくれてありがとう、なんて気持ち、1ミリも思いつかなかったな。

夜中に思い出したことの続き

父のパーキンソンの発症は18年くらい前。初めは、胴体が片側に傾いてしまったので、ビックリして受診したら、発症がわかった。病気を受け入れることも苦悩が合ったのだろうと思う。母も元気だったころで、心配だったのだろうなぁ。。。

その頃、何度か、父は、私のところにアレクサンダーテクニークのワークを受けに来た。私に父から何かコンタクトしてくるなんて、そんなことはとても珍しかったのだけど、困り果てて、背に腹は代えられなかったのかもしれない。(ワークするとまっすぐ立てた。)

お金は要らないに決まってるのに、断っても、断っても、頑強に父は私にポチ袋を渡した。「ありがとうございます」って書いてあるポチ袋だった。それ、ずっと机の奥にある。使えないからそのまま。。。。

辛い話を聞いたときの咄嗟の反応

そういうこと、夜中に目覚めて思い出しちゃった。

父が私の顔を見ていきなり、「俺はもうだめだ」と言ったのは、一人の病室で自分の病状や家のことを、相当思い詰めて考えてしまってたんだろうなと、やっと気づいた。

それで、ただ聞いて受け止めなかったことを少し悔いた。。。

私自身も父の言葉に動揺したんだ、と気づいた。
そのときは、冷静を装ってたけれども。

父の吐露をただ受け止めるって言うのは、すごくパワーがいることだったんだよね。ただ聞いてあげたらいいのに、
聞くのが怖いから、打ち返しちゃったり、聞く前にブロックしたりするんだな。

って、気づいた。うん。

でも、
以前よりは、父に対して、いい娘だと思う。
「できるだけ願いを叶えてやろう」と、多少、上から目線だが(笑)前向きな気持ちがある。冷血で淡々としてるけど。

父も、聖人では決してなく、ものすごくわがままで頑固を言うから、ムカつきもするけれど、

すももが食べたいとか、めかぶ食べたいとか、それくらいは、叶えられるしね。

身の回りのことは看護士さんやヘルパーさんにお任せなんで、事実上あんまり介護なんかはしてなくて、状況設定のみの協力なんだけど。

まあ、これはこれで、いいことにする。

すごくまとまりがなくなったけど、今日の「吐露の遺跡」終わり。

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2023.9.18 再び

なんと‼️😱
読み返したら、父はこの時の言葉通り満86歳(プラス1週間後)に亡くなったのだ‼️予言してた⁉️
思えば、初めて入院を体験したあれからの2年、父は人が変わったように生きた。

他者と交流し、家族に手紙を書き、自分の好きなこと、できることを淡々と行なった。わがまま頑固はそのままだったけれど、どこへ行っても自分で積極的に人とコミュニケーションをとり、居場所を作り出して行った。
私と妹はそういう父をそれまで見たことがなかった。

「親の死は最期の子育て」と友人に教えてもらった。まさにその通りだと思う。

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