「叫びが天国を作る」(マルコ10:46-52)
今回は「約束の虹ミニストリー」の虹ジャム礼拝で話した内容の原稿をアップします。
【𠮟りつける声】
今日の聖書の個所をみましょう。ここでは、バルティマイが叫び、イエスに近づいてきます。しかし、周りの人々は、彼を叱り、たしなめ、黙らせようとしました。イエスはバルティマイのために足を止め、彼の叫びに耳を傾けました。いつもなら、彼を黙らせる声に、ひるんでしまったかもしれません。しかし、イエスが来たと聞いたバルティマイを止めることはできません。
ケリフ選手は女性として生き、女性アスリートとして活躍しています。このケリフ選手について、国際ボクシング協会がケリフ選手のテストステロンの数値が高いという情報を公表しました。無責任な人々、差別することに何も感じない人々が、彼女を叱り、たしなめ、黙らせようとします。「こいつは男。顔と筋肉を見ればわかる」「お前は女ではない」「お前が女なはずがない」「今まで練習してきた女性ボクサーがかわいそうだ」国際ボクシング協会という団体が、一個人の身体に関わる情報を勝手に公表するということは大きな問題です。
ケリフ選手は自分のこと、自分の体のことは、よく知っているはずです。そして、懸命に生きてきた。女性として生きてきた。文字通り、血と汗を流して、トレーニングしてきた。しかし、それが、彼らが勝手に思い込んでいる女性の姿と違うという憶測と妄想から、彼女の全存在を消し去ろうとしています。バルティマイの存在が群衆の雑踏の中にかき消されようとしていることと重なるように思います。
バルティマイが叫んだのが嫌な人もいたかもしれません。バルティマイのやり方が気に入らない。イエス様に近づきたいなら、きちんと恭(うやうや)しく近づかなければならない。オリンピックを目指して、懸命に努力した柔道選手は畳の上で号泣したことで非難されます。柔道家に相応しくないと非難されます。自分の思っているような姿にならなければ、気に入らない人々がいます。ある人が自分自身を偽り、本来の自分の姿で生きたいと苦しんでいるのに、自分の思っている道徳や正義にどこまでも従わせたい人がいます。そして、今回その非難を受けているのが男性の選手ではなく、女性選手であることは単なる偶然でしょうか。
バルティマイを黙らせた人たちは、また、言います。「女性の安全を守るためだ」と。自分の信じる女性の安全を主張します。「私たちは誰かのためにバルティマイを黙らせるのだ」としたり顔です。でも、私たちは知っています。そんな人たちに女性の声などそもそも存在しません。そんな、おためごかしがまかり通ります。
バルティマイという人は、その存在、尊厳、それまで生きてきた人生そのものを否定された人々を代表しています。声をあげることを許されない人々を代表しています。気に入らないとターゲットにされれば、いくらでも罵られる人々の代表です。
私はケリフ選手への攻撃を目にしたとき、頭にきました。多くの怒りをSNSで見ました。その時、私はケリフ選手になりました。ケリフ選手への攻撃に怒りを露わする人たちの一人になりました。私もバルティマイになりました。
バルティマイなどいない存在にしようとする人たちがいます。聖書の別の個所では、イエス様に近づこうとしていた子供たちを弟子たちが叱りとばしています。弟子たちは、叫ぶ人をイエス様に近づくことを止める人たちを象徴しているようです。
弟子たちは、この時まだわかっていません。彼らの主であり、神であるイエス・キリスト自身が叫ぶ人でした。
【わたしの叫びが新天新地を造る】
私たちはキリスト教会でも同じ目にあったことはないでしょうか。また、同じようなことを目にしては来なかったでしょうか。助けを求めて、苦しみからの解放を求めて叫ぶ人を蔑み、拒否していることをです。
福音書にはイエス様に助けを求めて叫ぶ人たちが出てきます。イエス様は、その叫びに応えます。それは、イエス様自身が叫ぶ人であったからです。ガリラヤという抑圧された世界で生きてきたからです。十字架のイエス様は十字架の上で叫び、死を経験しました。それは復活のいのちへの叫びでした。死でさえ、イエス様の、私たちの叫びを止めることはできません。その叫びの一つ一つが新天新地で実現されます。私たちの叫びが新天新地を造ります。いや、むしろ、私たちが叫ばなければ、新天新地は造られません。
誰かが私たちの目を、心を強引に閉じさせます。叫びは封じ込められます。他人の人生を送らされようとして、自分の人生が見えなくなることがあります。押し付けられた人生が現実のように見えてしまうことさえあります。
しかし、自分の本当の人生は、心からの叫びを通して、見ることができます。叫びを通して、人生の美しさを求めます。叫びを通して、人生の美しさが生まれる。私たちが見たことのない美しさが生まれる。生きていることの美しさを見ることができます。イエス様が苦しみ、十字架で死を経験されたのは、苦しみの先には必ず復活の命があるから。私たちは、その美しいいのちのために今日も叫びたい。私たちの叫びが、神の新天新地になる。私たちが、虹ジャムに集まるのは、ともに神に叫ぶため、叫びの向こうにある美しさ、いのちを語り継ぐため、そして、しばらく続く苦しみの中で励ましあうためです。
ケリフ選手にも、私たちにも神様は語りかけます。「あなたは私のこどもだ。あなたが声をあげられないほど、うちのめされても、あなたは私の目に本当に美しい。」今日もみんなで叫びましょう。声をあげましょう。