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愛が世界を変える

【はじめに】


トランプ大統領がDEI(多様性・公平性・包摂性)プログラムの廃止を迫る大統領令を発表しました。そして、反LGBTQ大統領令にも署名をしました。大統領、この世界は男と女という性別しかないと言っています。その結果、多くの企業、そしてアメリカ軍も多様性・公平性・包摂性の方針を捨て去りました。
福音派の教会は、それこそが、神の創造の秩序だと言っています。つまり、神は世界と造りました。神の世界とは、多様性・公平性・包摂性など関係ない世界。福音派の教会にとっては、多様性・公平性・包摂性はすでに達成されているのであって、それに不都合があっても、人間は黙っていなければならない世界。しかし、それは聖書に描かれた世界なのでしょうか。もう一度、聖書の物語を読み直してみましょう。

【意外なストーリー・意外な人たち】


使徒8章から、福音はイスラエルの外に広がりはじめます。そのはじまりは、宦官からでした。多くの福音派と呼ばれるクリスチャンたちは、LGBTQとか同性愛とかいう言葉を出すと、眉をひそめます。そして、ある人たちは怒りはじめます。しかし、多くのクリスチャンは今日の聖書の個所を、驚くほどに素通りしてしまいます(が)。何故でしょうか?
福音が異邦人に広がっていくことを語っている8章から11章のエピソードを、最初の聴き手は驚きながら耳にしていたのではないかと思います
最初はエチオピアの宦官、そしてローマの百人隊長です。エチオピアの宦官はエルサレムの神殿で神に礼拝をささげるために、何百キロも何千キロも旅をしてきた敬虔な礼拝者です。そして、ローマ軍の百人隊長は「正しい人で、神を恐れ、ユダヤの民全体に評判が良い」と言われています。二人とも異邦人、異邦人が神の民になれるのか。当時のユダヤ人クリスチャンにとっては、衝撃的であったのではないでしょうか。それは、ちょうど、イエス様がルカの福音書で「善きサマリ人」のたとえ話と同じです。ユダヤ人にとっては憎きサマリア人。そのサマリア人を、イエス様はクリスチャンのモデルとして描きました。
ここでは宦官です。宦官という存在、また制度は、すでに旧約聖書にも書かれています。旧約聖書申命記の23章1節にこういう掟があります:「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない」。そして、新約聖書では、今日の個所で現れます。宦官は、王国などの重要な地位で働くために、男性の戦争捕虜や奴隷の男性器を切除し(切除され)た人々です。自分の子供を持つことができないため、王の地位を狙うことはないだろうと考えられていました。切除は、多くの場合、思春期前に行われていました。
宦官は、男と女という性別をあやふやにしてしまう存在です。1世紀ごろの文献によると、宦官は、男性として見られることがありました。ある文献では、女性として扱われていました。また、別の文献では、男でも女でもない人と書かれていました。当時考えられていた「毛深い」という男性的特徴、「ツルツルの肌」という女性的特徴は、必ずしも宦官には当てはまりません。
1世紀ごろに、宦官に対して持たれていたイメージがありました。それは、「すぐに女性に言い寄る者たち」というものです。LGBTQのことを聞くと、性行為のことを思い浮かべるシスヘテロの人々が大勢います。私もかつてそのように感じていました。使徒の働きの11章は、オリジナルの聴き手にとって、宦官とは、「ジェンダーの区別があいまいで、すぐに女性に言い寄る」というイメージがありました。

【愛が世界をクイアする】


宦官はイザヤ書を読んでいました。ピリポはイザヤ書からはじめて、イエスの福音を伝えたと書かれています。そして、宦官は言います。「私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」宦官のこの質問は重要です。しかし、ここは質問ではありません。修辞疑問文と呼ばれるもので、ここでは「いいえ、何も妨げるものはありません」という答えを期待している宦官の発言です。ここはとても大切です。ピリポにとって、そして私たちにとってです。アメリカの福音派クリスチャン、そしてそれに影響を受けている世界中のクリスチャンたちが、LGBTQという存在は聖書に反すると考えています。彼らはこの個所をどのように読んでいるのでしょうか。
38節には「ピリポが宦官にバプテスマを授けた」とあります。ピリポはあっさりとバプテスマを授けることを決めたのでしょうか。38節は興味深い個所です。「ピリポが宦官にバプテスマを授けた」と書いてありますが、ギリシャ語では、「彼が彼にバプテスマを授けた」というあいまいな表現になっています。文脈で考えれば、「ピリポが宦官にバプテスマを授けた」ということがわかります。しかし、水のある所に馬車を止めたのは宦官です。
私たちの経験で言うと、私たちが洗礼を受ける時、牧師に「洗礼を受けたい」と伝えます。そうすると、牧師や役員たちが許可を出して、洗礼が受けられるようになっています。しかし、ここでは、バプテスマについて話をはじめたのは宦官です。そして、馬車を止めたのも宦官です。まるで、宦官がピリポをリードして、自身のバプテスマに導いているようです。マタイの福音書3章で、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受ける様子を思い出させます。
宦官がこう言っているようです。「私は宦官です。私はあなたが私について、どんな風に考えているか知っています。私のことをすぐに女に言い寄っていく輩とお思いでしょう。私は、神を信じ、神を愛している。エルサレムの神殿で祈りをささげてきた。さあ、あなたは私にバプテスマを授けるか。キリストの会衆に、神の家族に、私は相応しくないのか。では、誰がふさわしいのか。正しいことを行ってほしい。」
ピリポが宦官にバプテスマを授けたことは、この世界に大きなインパクトをもたらします。旧約聖書では、神の集会に加われないとされ、中近東の文化では「いかがわしい、よくわからない者」として見られていた宦官です。そして、本来なら、ピリポが使徒として、イニシアティブを取って、バプテスマに導くのですが、その社会的序列がここでは崩れています。
1世紀のジェンダー、セクシャリティ、組織の中の序列・構造は、神の家族になることの制限にはなりません。ピリポはこの短い出来事の中で、そのことを悟ることになりました。私たちの世界では、「おい、ピリポ。バプテスマを授けるかどうかを決めるのは君や。君は使徒やで。バプテスマを受ける人に命令されることはないやろ」と言われるような場面です。聖霊に促されるとはこういうことです。このような場面は、しばしば聖書の中で見られます。社会的序列、秩序、境界線を超えて、神の愛が働いている場面です。ピリポはまさに聖霊に導かれたようです。
「LGBTQはクリスチャンになれるのか」という質問は、神の世界には初めからありません。神の国は人工的な境界線を越えて造られています。人工的な境界線を越えて、新天新地へと向かいます。私たちは、確かに、神に愛されている神の民です。
8章から11章のエピソードは、単に、異邦人に福音が伝えられるというストーリーではありません。キリスト教世界がクイア化(Queering Christianity)される始まりです。ショーン・D・バークという神学者は「クイア化」をこう説明しています。

「性別、セクシュアリティ、人種、民族、階級、その他のアイデンティティの軸に基づいて人々を互いに分離するために設計された人工的な境界線を越えることです。」 (The Queer Bible Commentaryより)

今日の聖書の個所は、誰が洗礼を受けるのに相応しいかとか、誰が洗礼を授けるのかとか、男か女かトランスジェンダーか、大人か子どもか、ユダヤ人か外国人か、神の民となるのに相応しいアイデンティティなどありません。私たちたちが当たり前だと思っている秩序や社会の境界線が崩されている場面です。私たちの敵意を煽る境界線です。しかし、それらが無くなったと言って世界が無秩序になるではありません。むしろ、愛が世界の秩序となります。私たちはそのために神に召され、洗礼を受けています。天満レインボーチャーチは、人工的な境界線を排除した教会を目指します。皆でともにそのような教会を作っていきましょう。

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