優しさという言葉の前に立ってみる
「優しさ」という言葉の響きはいつも少しだけ重たい。人に優しくしようと思うとき、ほんのわずかな圧力が胸の奥に生まれるのを感じる。押しつけになってはいけない、でも冷たくするわけにもいかなくて。その狭間で揺れる自分が、まるで濡れた洗濯物を干そうとする手のようにぎこちなくなる。
たとえば、コンビニのレジで、お釣りを受け取る瞬間。小銭を慎重に受け取ろうとした店員さんの指先が、ほんの一瞬私の指に触れたとき。あのわずかな接触が優しさなのか、ただの偶然なのか、私には区別がつかない。ただ、その指の感触が、なぜかずっと心に残っている。たぶん、相手が何も意識していないのが、かえって私の心を揺さぶったんだろう。
優しさはどこから始まるのだろうか。たとえば、電車で席を譲るとき、それは誰かのためなのか、自分のためなのか。私はよく迷う。座りたがっている人を見つけて席を立つとき、その行為にどれほどの優しさがあるのか測りきれない。ただ「良い人」でいたい自分のために動いているのではないかという疑念が、いつもついてまわる。だけど、きっと譲る側の方が良いことをした!喜んでもらえた!と良い気持ちになるから良い人でいれるだろう。
全く話は変わるんだけど、最近、仲のいい人に「どうしてそんなに気を遣うの?」と言われた。私は笑いながら「たぶん、怖いんだと思う」と答えた。そのとき自分の口から自然に出た「怖い」という言葉に、少し驚いた。何が怖いのだろうか? 誰かに嫌われること? それとも、自分が優しい人間ではないと気づくこと?
優しさの先にあるのは、案外、自己防衛なのかもしれない。優しさで誰かを包むとき、同時に自分を守ろうとしていることに気づいてしまう。それでも、そんな優しさが無意味だとは思わない。たとえ不器用で、自分本位な優しさであったとしても、それを受け取った人がどう感じるかはまた別の話だ。
優しさという言葉の前に立つと、そこには無数の「もしも」が浮かび上がる。もしも相手がそれを求めていなかったら、もしも自分の行為が誤解されたら。そのすべてに怯えながらも、私たちは誰かに優しくあろうとする。それは、たぶん、自分自身もいつか優しくされたいと願っているから。
優しさというのは、おそらく、他者と自分との間に生まれる一瞬の間(ま)のようなものだ。
それを与える側も受け取る側も、完全に自覚することは難しい。でも、その一瞬の間に宿るものが、人を救ったり、癒したりするのだろう。そして、そうした曖昧さを抱えたままでも、私たちは今日もまた、誰かのために優しくあろうとするのだ。
言葉の前に立つというのは、たぶん、自分自身の前に立つことなのだと思う。言葉に映し出されるのは、私が抱える弱さや矛盾、そしてささやかな希望。
そのすべてをただまっすぐ受け入れて、
私は今日もまた、新しい言葉の前に立ってみたい。