覚えるのが苦手な私は、台詞がどうしても覚えられなかった。夜中に何度も繰り返してみるけれど、気づけば台本を枕にして寝落ちしている。自分のセリフが他人事みたいに浮遊して、どうやって掴めばいいのか分からなかった私は、ただただ繰り返すしかなかった。前日までカタコトで本当に主役なんてやめてしまおうかとまで思った。(そんなことできるわけないけど。笑) ミュージカルの前夜、廃校の体育館は寒かった。 夜中の2時、天井の蛍光灯がかすかに明滅している。 みんな疲れていたけれど、練習は止まらなか
「優しさ」という言葉の響きはいつも少しだけ重たい。人に優しくしようと思うとき、ほんのわずかな圧力が胸の奥に生まれるのを感じる。押しつけになってはいけない、でも冷たくするわけにもいかなくて。その狭間で揺れる自分が、まるで濡れた洗濯物を干そうとする手のようにぎこちなくなる。 たとえば、コンビニのレジで、お釣りを受け取る瞬間。小銭を慎重に受け取ろうとした店員さんの指先が、ほんの一瞬私の指に触れたとき。あのわずかな接触が優しさなのか、ただの偶然なのか、私には区別がつかない。ただ、そ
誰かのお悩み相談かな?と思って開いてくれた、 貴方。これは私のお悩み相談なのです。 最近、自分の感情を人に伝えられなくなってきて、すごく悩んでるのです。 何も考えず、ぺらぺらと話していた自分が別人かのように思うほど。自分の気持ちが、言葉にならない。 自分の、ここにある感情を話そうとすると、 胸の奥で詰まってしまって、結局黙って泣いてしまう。自分の大切に思っている感情が今までみたいにうまく話せない。 目の前の相手は、私が何を言おうとしているのか、分かっているような、分かって
「祈るとは、何だろうか。」 それは、誰に向けられ、何を求める行為なのだろうか。私たちは、祈りという言葉を使うとき、常にその意味を問い直すことはなく、何かしらの希望や願望を内に秘めている。だけど、祈りは本当にただの「願い」なのだろうか。 祈りとは、むしろ世界との接点、あるいは自身の内奥と交わる瞬間ではないか。祈る人たちの姿は、しばしば沈黙とともにあるが、その静けさの背後には、何かもっと深い対話があるようにも思える。 私たちが祈るとき、それは何か外部の力に頼るための行動という
椅子に座り、机にフェルトをバっと広げた。 今月末から彼が5年ぶりに外へ飛び立つらしいので、 お守りをつくっている。 こちらの様子が気になる彼は、ちらちらと見てきたりちょっかいを出してくる。 いつものことだ。(笑) ペンで書いて、声に出して、声で聞こえたことをペンで書く、を繰り返す。 これは独り言ではなく、ここにいるあなたに話しかけている。でも「この子がきっとあなたを守っててくれるはずだ!」と信じてお守りを縫い続けた、独りの作業だ。 「お守りの中身、いつ見てい
テーブルの向こう側にいるあなたが、ただそこにいるだけで、私の平和が形になっていく。向かい合っているのに、あなたとの距離がもどかしくて、テーブルさえも邪魔に思う。私から何も奪わない人がこんなにも静かに、でも堂々と私のそばにいてくれるなんて、そんなことがあるだろうか。 私の言葉や心を奪うことなく、ただただそこにいて、私を包み込むように見守ってくれている。 その木製の表面に手を置けば、あたたかさが伝わる気がして、でもその手を握るには、ほんの少し勇気が足りない。けれど、あなたの目の
私たちの体は、ときにまるで器のようだと思う。日々の生活や感情、記憶、出会いと別れ、みたいなさまざまな要素が少しずつ注がれ、満ちていく。 時には溢れることもあるし、時には乾ききることもある。そんな中でも私たちの体は賢いのでそれを受け入れて、再び満たされることを信じて生きている。 今ここに起こっている全てが私の体の一部となり、体という器を満たしていく。それぞれ入ってくるものが私の中で深くて理解すらできない味わいを持ち、独特の香りを放っている。時にはその香りが混ざり合い、新しい
水辺の静かな朝、光がゆっくりと水面に踊りかかる。川の流れは穏やかで、微風が草木を優しく揺らす。そんな中で、私は小さな虹を作り出す瞬間を探し求めていた。 虹というのは、単なる光の屈折と反射による現象だと言われている。でも、私にとって虹は、それ以上のものだ。虹は心の奥深くにある希望や夢を象徴しているように思う。 何か美しいものが、ほんの一瞬でも現れる。その儚さが、逆にその美しさを際立たせる。 私は早朝に起きて川辺に向かった。太陽はまだ低く、柔らかな光が水面をよろめいている。
本というものは、人それぞれの心の中にそっと寄り添うものだ。私にとって、本はまるで友人のようなもの。喜びの時も、悲しみの時も、いつもここで、 そばにいてくれるということ。 とくに好きなのは、日常の何気ないとるにたらない瞬間をのがさず丁寧に描写した物語。小さな出来事や感情の揺れ動きを、まるでガッと絵を描くように。それでも、繊細に綴られたものが好き。 その曖昧さが、わたしにとっての心地がよい場所になる。 最近、よく私の好きな本を聞いてもらえるので、 はじめて、好きな本を紹介して
ゆうべ、彼と入ったイタリアンのお店で我家にいる猫にとんでもなくそっくりな顔をした表紙を見つけた。 「後で見てみようね」と彼が微笑む。 私はニヤっとうなずき、メニューを開いた。パスタやピッツァの名前が並ぶ中、カクテルの名前に惹かれ、思わずそれを注文することに決めた。 灰いろの毛に、まるで黄いろの宝石のように輝いた目でこちらを見ている。彼が持ってきてくれてパラっと捲ると、海外の本で私には読めないもの。彼に翻訳してもらいながら、目だけのページ、しっぽだけのページ、小さいのから
ただいま、岡山、広島と旅をして、関西の彼の実家で一泊させて頂いてから東京へ帰っている途中です。 もう6月も後半となってきて、大変なことばっかりだったけど、意外にも静かに半年が過ぎたような気もする。半年間、どんな瞬間もぎゅっとしていたように思う。 今回の旅は、あまりにも空気が濃くて、なぜここで流れる時間は、濃縮されているように思えるのだろう。と何回も思った。 岡山に旅に出た理由は、色んな書類の手続きと大切な予定があったからで、ほとんどの時間、私はせかせかしていた。せかせかして
ジョージアからイスタンブールへ移動してきた私。 1時間飛行機に乗っただけで、新しい街、新しい風景、新しい味。そしてなにより、ジョージアより猫が多い。ここが既にお気に入りな場所になっていることには違いない。 イスタンブールの海は、青く美しい色合いで、その広がりについつい足は止まり、波が穏やかに打ち寄せ、風が心地よく吹き抜ける。鳥が空を舞い、遠くの船がゆっくりと移動しているのをぼーっと眺める。見慣れない景色ばかりなので、平気で1日20㎞くらいは歩いている。気になるところを見つけて
私は今、苺の季節であるジョージアに居ます。 写真は道端でおばあちゃんからもらった花束。紫色の小さい花がかわいい。頑張って咲いたから見てほしいって感じがまたかわいい。 帰って小さめのコップに入れてあげました。 ジョージアのとある街 大型スーパー以外のほとんどの店は閉まっていて、 いつものパン屋も、レストランも同様に閉まってる。毎日通っていたジムでさえやってない。 ジョージアはイースターで、今日までの4日間はかなり盛大なイベントとしてお祝いされています。 昨日は雨で、今日はせ
私のお菓子ボックスの奥に大切に取っておいたお菓子、食べちゃったっていいんだよ。 いつだって、好きなときに、好きなだけ。 最悪の場合私を差し出すってくらいだよ。 そんなこと言うと「食べていいよ!」って言われるから、言わないけどね。でも実際に君が食べちゃったら、私は反射的に一緒に食べようと言ってしまうだろう。 そしてそのあと2人で映画なんか見ながら、ほろほろ泣いて、それで1日、また1日と生きるだろう。 人間ってなんて深いんだろう。でもそれが、人間だ。 だからせめて、この平和なと
ジョージアの夜はまだ明るい。 ひたすらに明るくて、人通りも多いからみんな安全に歩いている。 石畳にうつる影と光がゆらゆらと動いていて、歩くだけで楽しいけど、でこぼこしているし、すぐ足が痛くなる。 それなのにいつまでも歩いて、歩いて、歩き疲れて溶けてしまいたいと思う。 まだ明るい中に犬や猫がぽとぽと歩いている景色を見ると、懐かしい感じがする。 明るい街角に、にぎわうジャズバーを見ると、その中の強い活気が嬉しくなる。 後少しで国際音楽DAYらしいので、その日にどこかのジャズバーに
リチャード・カーティス監督として最後の作品「アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜」を久しぶりに見ました。凄く有名だから、きっと見たことのある人の方が多いと思う。これを見てすぐ、私のやった行動は自分の部屋のクローゼットで目を瞑って、拳を握って、戻りたい場所を想像した。そう、ただやってみたかっただけ。 もちろん、タイムトラベルはできなかったけど、満足。きっと、みんなもみた後やったでしょう。 ざっくりとあらすじを話すと主人公の彼が、21歳の誕生日の日。父に呼び出され「タイムト