[映画]コンテイジョン

 今夜のU-NEXTは『コンテイジョン』。2011年、スティーヴン・ソダーバーグ監督作品。

 実はこの映画を見ようと思ったのにはきっかけがある。すばるの7月号で、亀山郁夫氏が「ドストエフスキーの黒い言葉」という連載の第九回でこの作品に言及していたのだ。この作品を未見だったわたしはその時すぐにメモをとり、U-NEXT のマイリストに入れた。それを今夜、マイリストに入れて一か月ほど経っているのだけれど、ようやく見てみることにした。

 恐るべき映画だ。これはもう、ニュートラルな目で見ることはできない。未知のウィルスが蔓延し、対策よりも感染の拡大のほうがはるかに早い。手に負えない事態。正確を期すために煮え切らない公的な発表。バズればいいという姿勢のネットインフルエンサー。双方を対立させればエンターテイメントという姿勢のマスメディア。混乱する情報とアンコントロールな民衆。

 詰め込まれたディテールがリアリティを滲み出させる。その緊張感たるやただごとではない。

 「未知のウィルス」という小さな石を投げることでどのように波紋が広がるのか、それを描いたサスペンス映画である。よくできたサスペンス映画であったろう、公開当時は。

 2020年。世界はこの映画に描かれたのとよく似た状況にある。違うのは、ウィルスが映画で描かれているものほど速攻性、致死性を持ったものではない、ということぐらいだ。感染ルートも似ているし、対策も似ている。感染していても発症しない人がいる。発症していない人からも感染する可能性がある。ソーシャル・ディスタンスという言葉こそ出てこないものの、「接触を避ける」ことが有効である、と描かれている。

 なんということだ。これほどまでに予言的な映画があったとは。

 そういえばビル・ゲイツも、2015年ぐらいにこの先人類が克服すべきものは未知のウィルスによって引き起こされる状況であるというようなことを言っていた。恐れるべきは未知の感染症。原因が細菌であるにしろウィルスであるにしろ、何らかの感染症をこそ警戒すべきだと警鐘を鳴らしていた人はいたのだ。

 現在世界を震えさせているウィルスは、映画で描かれているものほど凶悪ではないものの、感染力はそれに近いものがあるし、未知である部分も酷似している。致死性は映画のものよりも低いとはいえ、それでも死に至るケースが少なからずある。

 映画としての見せ方も非常にうまい。映画は冒頭、「2日目」というテロップとともに始まる。2日目なのだ。パンデミック開始の翌日。そこからラストまで、息もつかせずに見せきる。ただ、この臨場感は映画そのものによるのか、現在の世界の状況と映画の世界がリンクしすぎていることによるのかはわからない。わたし自身、もうこの映画をニュートラルな目では見られていないと思うからだ。

 世界が変わってしまったことで映画の見え方が変わる。この作品は2011年に公開されたときから現在もまったく姿を変えていないはずなのに、おそらくこの映画が人々に与える力はまったく異なっているだろう。

 ラストシーン、もちろん最初のカットで予想した通り、「1日目」が描かれて終わる。感染の最初のひとりがどうやって誕生したのか。

 こんなもの、防ぎようがない。

 しかしこの作品を見ると、今新型ウィルスの対策として叫ばれている、手で顔を触らない、手をよく洗う、マスクを着用する、他人との接触を避ける、というのはすべてかなり有効であろうことがわかる。そういうことをおろそかにしないだけで、かなりの感染を避けることができそうだということが視覚化されている。

 映画に描かれたものに現実が追いつく、というのはSFなどでよくある話だけれど、これはそういうものとは違った形で、かつて映画に描かれた状況と同じことが現実に起きてしまった例と言える。

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