散らばる自分とわたし #寄せ文庫
猫野サラさんが呼びかけておられるこちら。
入院、闘病中のふみぐら社さんへのお見舞い企画です。企画の主旨については上記猫野サラさんのnote をご覧ください。
いろいろと思うところありましたがその辺は末尾に補記するとして、まずは寄せ文庫に寄せる本文を書きます。
寄せ文庫 本文
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「散らばる自分とわたし」
さらりと吹き抜けて行き、過ぎ去った後に何かが残っている。ふみぐら社さんの書かれる文章からはそういう印象を受ける。その残った何かが、わたしに思考を促す。自分の内側にはたくさんの自分が蠢いていて、自分の知らない自分たちが「ばらばらに動いてるのをなんとなくうまく操る」ことで日々を生きている。そんなビジョンとカフカの「審判」から引いた門のモチーフを用いて語られた文章は、わたしの内側にいる得体の知れないわたしを照らし、次の世界へ降りるための門を感じさせる。
わずかこれだけの文章なのに、読み終えたあと終わりの見えない思索の渦に飲み込まれていく。ふみぐら社さんの文章にはそういう力がある。わたしはわたしの内側へと踏み込み、蠢く「自分と同じはずの知らない自分」を目の当たりにする。
わたしが思索の階段を下りていくとき、わたしの門番はいったいなにを言うのだろう。
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(業務連絡)上記感想文378文字
(業務連絡追記)感想文のタイトルが「散らばる自分とわたし」です。
[補記]葛藤、悩み、思い
この先は長い上に独白みたいなものなので興味のある方だけご覧ください。あまり面白いものではないと思いますが、自分の整理のために書いておきたい内容です。
猫野サラさんは「クリスマス金曜トワイライト」の映像化プロジェクトで一緒に映像を作った盟友だ。もちろんそれ以前からサラさんの作品は大好きで、みんフォトを使わせてもらったこともあるし、マンガ作品も文章も好きだ。特にネコのアキコの出てくるマンガが大好物。
そんなサラさんの呼びかけではあるけれど、わたしはふみぐら社さんのことをほとんど知らない。病床にあることはnote を拝見して知っていたけれど、それについて何か言葉をかけるような立場にないと思っていた。わたしが知らない以上に、彼がわたしのことを知らないだろうと思った。
そんなことを思いながらほかの方の#寄せ文庫を読んでいる中で、偶然ふみぐら社さんのユーザページを開くと、なんと「フォローされています」と表示されていたのだ。
いつのまに? と思った。思い当たるとすれば、東京嫌いの時だ。あのとき、わたしは即マガジンを購入し、自分もそれに触発されて勝手に便乗して東京をモチーフにした連作を書いた。マガジンに収録されたすべての作品についてコメント付きでTwitter にシェアするといったこともやった。そのときにマガジンの企画者の一人であるふみぐら社さんがわたしを見つけてフォローしたということは考えられそうな気がする。(余談だがわたしが「東京嫌い」を購入したのはサトウカエデさんが執筆者に入っていたという理由)
フォローしていただいているということがそのままわたしの書いたものを読んでいることにはつながらないし、ましてわたしを知っているということにもならないとは思う。わたしも自分のフォローしている人の文章を全部読んでいるわけではないし、フォローしている人のうちその人を知っていると言える人の方が少ない。でもそうは言っても、まるっきり知らないだろうというところから「フォローされていた」という事実は大きく隔たったところにある。そうだったのか。それなら何か一言、わたしがお見舞いに添えても良いのかもしれない。
そう思って、ふみぐら社さんの文章を読む日々が始まった。猫野サラさんの告知note に、「5日間有給取るなどして熟読してください」とあるように、かなり気合を入れて挑まねばならない物量だ。実際問題、わたしは4日間ぐらいほとんどふみぐら社さんの文章しか読んでいないという勢いで読んだけれど、まだおそらく全体の半分にも満たないだろう。それでも300本ぐらいは読んだ。
読んでいて気付いたことがある。惹かれるタイトルが多い。タイトルを見て、「あ、きっとわたしと同じようなことを感じておられるのだろう」と思う。しかし読んでみると違う。読みやすい文章でそれほど長くないのでさらりと読めるのだけれど、読み終えると何か引っかかりが残る。今回けっこうな数を読んでみて、ふみぐら社さんとわたしは、問題意識がけっこう似通っているのだと感じた。同じようなことを問題視していて、同じようなことに引っかかりを覚えるのだろう。しかしそこからの思考の展開が異なる。問題意識が似ているけれどそこから向かう先が異なり、進み方も異なる。そしてたどり着く先も、すこし異なっている気がする。
300本ぐらい読んでみて、すっと腑に落ちるようなnoteは実に、ほとんどなかった。逆に、問題意識に賛同するものはほとんどすべてに及んだ。これほどまでに近くて遠い感じのする人にはあまりお目にかかったことがない。読めば読むほどに、「この人と話をしてみたい」という思いが湧き上がってくる。(結論を異にするというのはわたしにとって大きな興味を惹かれることでこそあれ、袂を分かつようなことにはならない)
病に打ち克って戻ってきたらぜひ、改めてご挨拶からさせていただきたいです。そして思索の扉を開くようなお話をさせてほしい。心より快復を願っています。
2021.6.25 涼雨 零音