[小説]かきならせ、空! 第一話
「あーっ。天っ才になりてぇー」
中学校を卒業した日の夜、空楽はまだ雪の残る自室のバルコニーに立ち、月に向かって右手を突き上げながらつぶやいた。ひんやりとした夜風がTシャツの袖口から吹き抜けていき、肩をすくめながら身震いした。すくめた肩が短くした髪に触れた。空楽は掲げた右手を翻して掌を見上げた。自分と同じ十五年間を、同じこの町で過ごしてきたまだ会ったことのない人たち。もうすぐ、そんな人たちと会える。空楽は再び掌を月に向けて月明りを握った。まだ月だって知らないようななにかがきっと始まる。空楽はその闇雲な予感が心臓を加速するのを感じた。
*
「こうして空楽と二人で出かけるのは久しぶりだな」
めっきり白髪が目立つようになった父にそう言われ、空楽は曖昧にほほ笑んだ。隣を歩く父を見上げると、父の顔は思ったほど高くないところにあった。幼いころよくいろいろなところに連れて行ってくれた父だけれど、空楽が中学校に上がってからは会話をすることも減った。そんな空楽がこうして父と二人、春休みの週末に肩を並べているのには理由があった。中学校の卒業と高校への入学のお祝いに、エレキギターを買ってもらうのだ。目尻をしわだらけにしながら微笑みかける父に、空楽は作り笑いみたいな顔を返した。久しぶりに父と並んで歩くのは嫌ではなかったけれど、なんだかちょっとだけ、間違った場所にはまってしまったパズルのピースみたいな気がした。
町の中心部にある商業ビルに、全国チェーンの楽器店が入っている。この町には数少ない楽器店の一つだ。エスカレータで楽器店のあるフロアまで上ると、空楽は歩みを速めて父から離れ、エレキギターが展示されているコーナーへ直行した。
「うわあ。たくさんあるね」
空楽は壁にかけられたギターを端から目で撫でた。父からはだいたいの予算を聞いているので、まずその範囲に収まっているものに絞るつもりで値札を読んでいった。
「値段は少々オーバーしてもいいから、空楽がこれだって思うやつにしなさい」
値札だけ見て素通りしていく空楽に父が言った。空楽は目を丸くして振り向いた。
「どうせそうしょっちゅう買い換えるもんじゃないんだから。値段で妥協しないで空楽が気に入るやつを選びなさい」
「ありがと、お父さん」
空楽は少し前に素通りした中の一本の前に立って見上げた。赤いボディを持つそのギターは妙に空楽を惹きつけた。そこには予算とされていた金額を二割ほど上回る値札が付いていた。
「ギターをお探しですか?」
紺色のエプロンをした店員が空楽に声をかけた。空楽は戸惑って父の方を見たけれど、父は頷いただけだった。
「はじめてのギターですか?」
「あ、はい」
「そのギター、弾いてみます?」
店員は空楽が見上げていた壁のギターを指さして言った。
「いえ、まだぜんぜん弾けないんです」
「じゃぁ、抱えるだけ抱えてみましょうか」
そう言うと店員はもう壁からギターを降ろしていた。
「これはいいギターですよ。信頼性の高い部品で組まれてますし、とにかく良くできてます。初心者にも間違いない一本だから自信をもってお勧めできますよ」
そんなことを言いながら店員はスツールを用意し、空楽にどうぞと促した。空楽がスツールに座ると店員はギターを調弦し、座っている空楽の膝の上に置いた。空楽は太腿に想像していたよりも重いギターの存在を感じた。
「なんとなく持ち方わかりますか? 右手をこうギターの前に出して抱えるようにして、左手はネック、この細いところですね、これを下から支えます。力は入れなくて大丈夫」
空楽は言われるままにギターを抱えた。見よう見まねで左手でネックを軽く握りこむように添えた瞬間、体の内側のなにかとギターが接続されたような感覚があった。空楽は肩をすくめて身震いした。はじめて手にしたエレキギターは想像していたよりも重かったのに、不思議とずっと前からそこに収まっていたみたいに感じられた。空楽はギターの表面を覗き込んだ。ボディの赤い色が自分の鼓動に合わせて脈動しているような気がした。右手の親指で弦をはじいてみた。ぷ、ぷちぷち、ぷ、というような音にならない音が出た。
「おぉ、似合いますね。ちょっと待ってね、いま鏡持って来ますね」
店員はそう言ってその場を離れた。空楽は父の方を見た。
「いいじゃないか。さまになってるよ」
父は腕組みをして頷きながら言った。
「お待たせしました。ほら、見てみて」
店員は姿見を持って戻ってくると、それを座っている空楽の前に据えた。空楽は赤いギターを抱えて鏡に映っている自分を見た。しばらく鏡に見入ったあと、店員がそんな自分を見守っていることに気づき、空楽は慌てて「あ、かっこいいですね、これ」と言った。
「このギターはピックアップっていうこれ、これは弦の振動を音にする、言ってみればマイクみたいなものなんですが、これが三つついていて、この切り替えスイッチで五通りの音が出せるんです。だからいろんなジャンルの音楽に対応できますよ」
「初心者でも使いこなせますか?」
「もちろん。はじめての人は特に、最初はある程度ちゃんとした楽器を買った方が良いと思います。最低限チューニングが狂わないとか、音程が正しいとか、そういう楽器としての基本的なところがちゃんとしてるのを買った方が良いんですよね。どこかがおかしい楽器でそのことに気づかないまま練習しちゃうと変な癖が付いちゃったりしますからね。その点このギターは安心ですよ。それに色が、とびきりいいですね」
「まだぜんぜん弾けないんですけど、なんか一目見たときからこれっていう気がしたんです」
空楽がギターを抱えたまま店員を見上げて言うと、店員は何度も頷いた。
「そんな感じでしたね。最初に持った瞬間の感じを見てて、あ、この人にはこのギターだ、と思いました」
「そういうの見ただけでわかるんですか?」
「いつもじゃないですけどね。わかるときもありますよ。ギターに選ばれる感じっていうのかな。たまにそういうこと、ありますね」
「へえ」
空楽は感心しながら抱えているギターを眺めた。右手でボディのふちを撫でてみた。その滑らかなカーブが、空楽の手を導いているような気がした。
「これにします」
あっけなく決めた空楽の言葉に店員は頷いた。
「今感じたこと、大事にしてくださいね。ギターを続けていけば、この先もまたギターを買うことってあると思うんです。ヘタしたら人生で何十本も買うことになるかもしれない。でも最初の一本は、この先買うどんな一本とも違う、一番大事な瞬間なんです。あなたの人生がギターに出会った瞬間ですから。きっとこの先どんなすごいギターを買っても、今日感じた震えるようなワクワクとは違うと思います。今日のワクワクを大切にしてくださいね」
空楽は店員を見上げて深く頷いた。
「他にその、なにか一緒に買った方がいいものがありますよね?」
空楽の父が店員に訊いた。
「そうですね。まずはピックと、立って弾くためのストラップ、これはギターを肩にかける吊り紐みたいなものですね。ストラップは座って弾くときにもあったほうが良いのでお求めになることをお勧めします。それとアンプか、またはヘッドホンアンプ。あとケーブル。それにチューナーもあった方が良いです」
そんなことを言いながら店員は売り場の中から小さめのパッケージをいくつか持ってきた。
「便利って意味でいくとこれがとても便利ですよ。これヘッドホンアンプにエフェクターとかリズムマシンが内蔵されてるので、これにヘッドホン差すだけで普段の練習はばっちりです。それとチューナーもいろんなのありますが、普段使いだとこのクリップみたいにつけるタイプが使いやすいですよ」
結局ストラップだけ自分好みのものを選び、それ以外は店員の勧めてくれたものをまとめて買うことになった。小物類をケースのポケットに入れ、店員はギターケースを空楽に背負わせてくれた。当初の予算より数万円オーバーした金額を、空楽の父は特になにも言わずに支払った。
「お父さん、ありがと」
空楽は父を見上げて言った。父は目尻のしわをさらに深くしながら空楽を見た。
「そのギターがきっと空楽にたくさんの景色を見せてくれる。思いっきりやりなさい」
父の言葉は空楽の中に温かく響いた。空楽は父の目を見て頷いた。
会計をし終えたところで店員が空楽に名刺を差し出した。
「僕はこの店でギター、ベース関係を担当している西園寺 満と申します。お客さんは割とみっちーさんって呼んでるので気軽にどうぞ。ギターは買って終わりじゃなくて、弾いていると弦を替えたりとかもあるし、メンテナンスなんかもあるし、きっと楽器店とは長い付き合いになるんで、今後ともよろしくお願いします。ギターで困ったことがあったらいつでも相談しに来てください。いや、特に用がなくても歓迎なのでいつでも来てくださいね」
「ありがとうございます」
空楽は礼を言いながら出された名刺を受け取った。
「みっちーさん、私みたいな、ぜんぜん何も弾けないような人もギター買いに来ることありますか?」
「もちろんありますよ。誰でも最初はまったく弾けない状態ですから。特にこの時期は中学とか高校の入学に合わせてギター始める人がいるので、これから始める人がとても多い時期でもあります。どんなギタリストにも最初の一本との出会いが人生に一回だけあるんですけど、僕はここでたくさんの人のその最初の一本に立ち会えるんですよ。そう考えると夢みたいな仕事ですね、僕の仕事」
西園寺はそう言って目を細めると、少し間をおいてから空楽の方を見て「また顔見せに来てね」と言った。
「はい。これからよろしくお願いします」
*
入学式から二週間ほど過ぎた頃、部活動が始まった。一年生は皆ざわざわと校内を移動しながらあちこちの部活を見学していた。精力的に勧誘をしている部とそうでもない部があった。入学前からわかっていたことだけれど、空楽が進学した旭北高校にはいわゆる軽音楽部は無かった。本当は軽音同好会のある旭東高校を希望していたのだけれど、入試で落ちてしまって入れなかったのだ。空楽はもともと高校に入ったらバンドをやりたいと思っていたので、軽音楽部がないのであれば他の部活をやるつもりはなかった。旭北高校には音楽部というのがあり、数年前まではこの音楽部が軽音楽部のような形でバンド活動などをやっていたのだけれど、顧問の先生の転任、交代に伴って実質合唱部になり、今は混声合唱部として、それなりに優秀な成績を収めている。空楽はこのことを入学前から知っていたので、北高への進学が決まって多少失望していた。
級友たちがそれぞれ部活を決めて入部していくのを横目に、空楽を含めてクラスの数人がいわゆる帰宅部としてどこの部活にも所属せずにいた。だいたいそれぞれの行き先が決まって落ち着いてきたある放課後、空楽は隣のクラスの教室に出向き、帰り支度をしている一人の生徒に声をかけた。
「はじめまして。わたし2組の御奏 空楽。ちょっといい?」
空楽に声をかけられた生徒はきちんとまとまったポニーテールを揺らして顔を上げた。
「なに。その学園アニメのヒロインみたいな自己紹介」
相手の反応を見て空楽は口元に笑みを浮かべた。
「ね、あなた名前は?」
「琴那。家城琴那。うちになにか用?」
「うん。家城さん吹奏楽部に打楽器で入ったでしょ?」
空楽の言葉に琴那はもともと大きな目をさらに大きくした。
「なんでそれを?」
「ごめん、偵察した」
「偵察? なに、あんたスパイ?」
怪訝な顔をする琴那を見て空楽は両手を胸の前で振った。
「そういうんじゃないんだけど。ドラムできる人を探してて。家城さん、吹奏楽の打楽器ってことは、ドラムも叩けたりしないかなと思って」
「へ? うん。叩けるよ。というかほんとはドラムがやりたいんだけどさ、うちは。軽音がないじゃんこの学校。だから吹部で打楽器やればドラムも叩けるかなって感じで吹部入ったんだよ」
「おお。ほんとは軽音やりたかったの?」
「まあね。中学でも吹部やってたからさ。高校入ったら軽音にしようと思ってたんだよ」
「ね、じゃあわたしと一緒にバンドやらない?」
空楽の言葉に琴那は目を見開いて身を乗り出した。
「え? 君もなんか楽器やるの?」
「うん。まだ始めたばっかだけど、ギター弾く。わたしもバンドやりたいんだよね、バンド」
「へえ」
琴那は体を半歩引いて空楽を頭の先からつま先まで眺めた。
「でもバンドやりたい子は普通あまり北高には来ないんじゃない?」
少し眉を上げながら琴那が言った。
「そう。その通り。実はわたし東高に落ちたんだ。そんで仕方なくここに」
「なんだ、仲間じゃん」
琴那はそう言うと声を上げて笑った。
「うそ。家城さんもそうなの?」
「そだよ。うちも東に落ちてここ。おんなじすぎて笑うわ」
「じゃバンドしよ、バンド」
空楽は制服が触れ合いそうな距離まで乗り出して言った。
「他のメンバーは?」
「まだいないよ。家城さんとわたしだけ」
「そっか。じゃ二人からだね。で、バンドやるわけだから、まずはその家城さんってのやめよう。琴那でいいよ、琴那で」
「おっけ。じゃ琴那もわたしのこと空楽って呼んで」
「もち。空楽よろしく」
琴那はそう言って空手みたいな速さで右手を差し出した。空楽はその手を握った。互いの掌が吸い付くような感じがして、手が離れたあとも空楽の右手には琴那の感触が残っていた。
*
週末、空楽は自宅からバスに乗り、そう広くない市内の、あまりなじみのない住宅街に出かけた。地図アプリで送ってもらった住所を頼りに、琴那の家に行くのだ。教えてもらったバス停まで行けば、琴那が迎えに来てくれることになっている。
町の中心部や、郊外のショッピングモールなどには友達同士で出かけることもあったけれど、住んでいるエリアから離れた住宅街などにはこれまで出かける機会がなかった。降りるバス停までしばらくあるはずだけれど、空楽は座席には座らず、空いている車内で立っていた。ギターケースを背負って吊革にしがみつきながら、一つバス停に到着するたびに周りを見回した。やがて琴那に教えられたバス停の名前がアナウンスされ、空楽は目を閉じて頭の中でたっぷりと8ビートを二小節刻んでから「とまります」と書かれたボタンを押した。
「よっ」
バスを降りると、緩めの濃紺のジャージを着て上着のポケットに両手を突っ込んだ琴那が待っていた。髪を降ろして寝間着みたいな服を着ている琴那は学校で見るのとはまったく別人みたいだった。
「おはよ。琴那って休みの日はそういう感じなの?」
「そういう、とは?」
「なんていうか、休日のお父さんみたいな感じ」
琴那は大笑いした。
「マジそれすぎて笑うわ。お父さん。ヤバい」
笑いながら歩くとすぐに琴那の家に着いた。
「ただいまー。空楽が来たよー」
琴那は家の中に向かって声を上げ、空楽を振り返って「どうぞ」と言った。空楽はあとを追いかけるように靴を脱いで上がった。琴那は二階への階段を上って行き、空楽はその後を追った。階段の入り口からリビングルームが見え、ソファに座っていた琴那のお父さんと目が合った。休日だけれど琴那のお父さんは琴那ほどゆるんだ格好はしていなかった。
「いらっしゃい。ゆっくりしてって」
琴那のお父さんが空楽に声をかけた。空楽は立ち止まると、「はじめまして。御奏空楽です。よろしくお願いします」と頭を下げた。階段の上で振り向いた琴那が「なに。その初バイトみたいな挨拶」と言った。
琴那の部屋は大きめの電子ドラムが設置され、反対側にベッドと勉強机が置かれていて、それでもまだ床置きの座卓を置いてお菓子を食べたりできそうなほど広かった。
「広い部屋だね」
「そうね。この部屋はたぶん壁で仕切って二部屋にできるっていうやつなんだよね。うちが一人っ子だったから独り占め状態になったんだと思う」
「家にドラムあるのすごいね」
空楽は部屋の特等席に鎮座している電子ドラムのシンバルを撫でながら言った。
「ドラムっていってもこれ電子ドラムだけどね。生ドラム置くとなると防音室とか必要だけど、電子ドラムなら普通の一軒家なら大体いけると思うよ。家族はうるさいと思ってるだろうけど」
琴那は部屋の隅にあったドラム用の椅子を持ってきて空楽に勧めた。
「はい椅子。ドラム用だけど。ね、空楽のギターも見せてよ」
「うん。もちろん」
空楽は椅子に座るとギターケースからギターを取り出してストラップを肩にかけた。
「おお。赤いんだね。いい赤だ。かっこいいね」
「ありがと。なんか楽器屋さんでこのギターが呼んでる感じがしたんだよ」
「うほぇ。運命ってやつだねぇ」
空楽は大真面目だったけれど琴那は茶化しておどけた。空楽はギターを構えてストラップの居ずまいを直し、コードを押さえて軽く弾いた。
「ドラム用の椅子、肘置きとか背もたれとか余計なものがないからギター弾くのにも邪魔にならなくていいね」
「ああ。そういうこともあるのか。優秀じゃんドラム椅子。うちはこの座るとこが丸いやつが好きだけど、なんか自転車のサドルみたいな形になってるやつもあるよ」
「それはなんか落ち着かなさそうだね」
空楽は笑いながら言った。琴那は空楽の持ってきた機材を覗き込み、床に置かれていた透明なプラスチック製のケースの蓋を開け、中を探ってケーブルを一本取り出した。
「そのヘッドホンアンプにこの線をつないで。ヘッドホン差すとこに差せばおっけー。そんで空楽のヘッドホンの線をこっちにちょうだい」
空楽は渡されたケーブルをヘッドホンアンプにつなぎ、代わりに自分のヘッドホンのケーブルを琴那に渡した。琴那は受け取ったケーブルをミキサーに差し込み、自分のヘッドホンをかぶって電子ドラムの中に座ると、足元に置いてあった靴に足を突っ込んだ。空楽がヘッドホンを装着すると琴那は目で合図をして、ドラムを叩いた。ヘッドホンからドラムの音が響いた。
「おお、すごい」
「空楽も弾いてみて」
空楽は頷いてギターのボリュームを上げ、Dのコードを押さえてピックを振りぬいた。ヘッドホンアンプについているエフェクターの効果で心地よく歪んだディストーションサウンドがヘッドホンから響いた。
「すっげー。マジかっこいいな」
琴那はそう言うとシンプルなドラムのパターンを叩き始めた。空楽は琴那の叩き出すビートを聞いて、肩をすくめながら身震いした。腰のあたりからつむじにむけて鳥肌が駆け抜けたような気がした。ヘッドホンから響くビートに体を預けながら、覚えたての循環コードでギターを鳴らしてみた。いつもはヘッドホンアンプに内蔵されたリズムマシンに合わせて練習しているけれど、機械のビートと琴那が叩き出すビートはまるで違うものだった。
「ドラムの音が、生きてる」
二人はしばらく時間を忘れて音を奏で続けた。ごくシンプルなパターンの繰り返しなのに、不思議と飽きることもなかった。
「ふいー。汗かいたわ」
琴那はスティックをスネアドラムの上に置いてヘッドホンをその上に乗せ、立ち上がった。
「すごいね。ドラム、すごくうまいね」
空楽もギターを下ろしてケースに戻した。
「さんきゅ。でも正直に言うと、うちは別にそんなうまい方ではないと思う。中学からパーカスやってれば、まぁだいたいこのぐらいは叩けると思うんだよね」
「でも中学からパーカスがレアでしょ」
「そんなことないよ。高校の軽音でドラムやってる人の五パーセントぐらいは中学の吹部でパーカスなんじゃない?」
「五パーセントならレアだよ」
二人は話しながら部屋の隅に畳んで立ててあった座卓を広げ、床に座った。
「てか、空楽はギター始めたばっかなんでしょ。やけにうまくない?」
「え。だってたいしたことできないよ。簡単なコード押さえてジャカジャカぐらいだよ」
「そのジャカジャカがさ、ちゃんとリズム出てるよ。それに見た感じ、手の動きとか、うまい人の感じだよ」
琴那は右手をギターのストロークみたいに振った。
「そうかな。わたし素質あるかな?」
「あるある。あると思う。ギターのことはぶっちゃけよくわかんないけどさ。リズムがいいってのはどの楽器でも一番大事だからね。指めっちゃ動くけどリズムがダメとかいう人もいるから。単なるジャカジャカがちゃんとグルーヴするのはけっこうすごいと思うよ」
「そう、かなあ」
空楽は自分の内側からニヤニヤが沸き出してきて顔から溢れ出るのを感じた。
「もしかしてうちら、すごいのかなあ」
「天才高校生バンドって言われるかな」
「これは早く残りのメンバーを見つけなきゃだね」
「そうとうすごいやつを探さないとだよ。うちらヤバいから」
空楽は琴那と笑いあいながら、そんな他愛もない冗談みたいな、でももしかしたら冗談でもないかもしれない会話を楽しんだ。
*
「空楽いる?」
放課後、空楽の教室に琴那が入ってきた。
「いるよ、ここだよ」
空楽は手を振りながら答えた。
「どしたの、今日部活は?」
「今日は休みなんだ。ね、帰り楽器屋行かない? うちスティック買いたいんだよね」
「いいね、行こう行こう。どこの楽器屋行くの?」
「フィーヴの島沼」
フィーヴというのは町の中心部にあるショッピングビルの名前で、フィーヴの島沼とはまさに、空楽がギターを買いに行ったあの店だった。
「まあ、そうなるよね」
二人は制服のままバスに乗り、中心街に降りて楽器店へ直行した。エスカレータが楽器店のフロアに近づくと、様々な楽器の音が入り混じって聞こえてきた。売り場には幅広い世代の客が来ていて、思い思いに展示されている楽器に触れたり、店員さんと会話したりしていた。
「わたし楽器屋さんのこの感じが好きなんだよね」
空楽は琴那に肩を寄せながら言った。
「わかる。ここにいる人みんな楽器やってるか、これからやる人なんだろうなって思うとなんかさ、尊いよね」
「うん。尊い、尊い」
琴那はドラムの売り場へ直行し、スティックを物色し始めた。
「すごい。ドラムのスティックってこんなにいろいろあるんだね」
「そうなんだよ。うちもドラムやるまで一種類しかないもんだと思ってたよ。材質もいろいろだし、太さとか長さとか重さとか、ほんとにいろんなのあるんだよ。どれが自分に合ってるかとかもさ、いろいろ試してみないとわかんないよね」
「へえ。けっこう高いんだね」
「どれ?」
琴那は空楽が見ているスティックを覗き込んだ。
「ああ。ペアで三千円ちょいね。それはそこそこ高い方のやつだね。ドラムのスティックは二本セットで千円ぐらいから、一万円近いのまであるよ」
「そうなんだ。それでどのぐらいもつの?」
「それは使い方によると思う。生ドラムでリムショットっつってタイコの縁のところにバカスカ当てながら叩くスタイルだったりするとあっという間にボロボロになるし、叩いてる途中で折れちゃうこともあるよ」
「折れるの? これが?」
空楽は置いてあるスティックを一本取り出して振ってみた。これが折れるような叩き方をしたらドラムのほうが壊れてしまうんじゃないかと思えるほどにしっかり硬く、重かった。
「さすがにうちの叩き方じゃそうそう折れないよ。でもメタルのごっついドラマーとかだとライブ一回で何本も折れる人もいるみたいよ」
「ほえぇ。よくドラムが無事だね」
空楽はスティックを元の場所に戻し、その他のスティックを眺めた。
「アーティストモデルのスティックもいっぱいあるんだね」
「そう。いろんなドラマーのモデルね。意外とアーティストモデルはそんな高くないのが多いよ。うちが使ってるのも実はアーティストモデルなんだけど、正直この人がどういうドラマーか知らないんだよね。なんか昔の有名なスタジオミュージシャンらしいんだけど。うちはこれ安くて使いやすいから使ってる」
そう言うと琴那は端の方にあったスティックを二本取り出した。
「いつかうちも有名になって、このメーカーから家城琴那モデルを出すのが夢だよ」
「うおぉ。かっこいい。琴那モデル楽しみだね」
「他人事じゃないぞ。一緒に行くんだぞ、空楽も。琴那モデルが出るころには空楽モデルのギターも出るんだぞ」
空楽は急に言葉が出なくなって琴那を見つめた。そんな空楽を見て琴那は微笑みながら両手に持ったスティックを掲げて見せた。
「空楽はなんか買うものないの?」
「弦でも買っていこうかな」
二人はギターやベースの弦が置いてあるところへ移動した。
「ギターの弦もいろいろだねえ」
琴那がギター弦の値段をいくつか見比べながら言った。
「エレキギターの弦は割とちゃんとしたやつでもドラムのスティックよりちょっと安いぐらいかな。いいやつは三千円ぐらいするやつもあるけど」
「見て。ベースはヤバいよ。弦めっちゃ高い」
「ほんとだ。安いのでも三千円じゃん。ベーシストお金かかるねえ」
「でも楽器はさ、だいたいお金かかるよね。楽器そのものも高いし、そのあと維持費もかかるしさ。ギターだって今はいいけど、本格的にやりだしたらエフェクターだアンプだってなってすごいことになるんじゃない?」
「そっか。そうだよね」
ひとしきり弦売り場を堪能した後、二人は会計に向かった。店内には試奏の音が響いていた。
「誰かギター試奏してるのかな。すごい滑らかな演奏だね」
琴那の言葉ではじめて空楽はギターの音に耳を傾けた。ときどき音が変わり、そのたびに演奏されているフレーズの雰囲気もがらりと変わった。ロック系の歪みサウンドのときはハードなギターリフや速弾き、広がりのあるきれいな音のときはジャズみたいなフレーズなど、多彩に弾き分けていた。
「あれはギターじゃなくてエフェクターの試奏かも」
音のする方を覗いてみると、接客しているのは空楽がギターを買うときにお世話になったみっちーだった。みっちーと向き合う形で椅子に座って派手な色のギターを抱えているのは、空楽たちと同じ年頃の少女だった。おろした長い髪を時折ピックを持った右手の小指で耳にかけながらギターを弾いていた。
「あ、あれ東高の制服?」
「ほんとだ。高校生じゃん。とんでもなくうまいね」
椅子に座った少女は目の前に立っているみっちーと何やら言葉を交わしては足元のエフェクターを操作し、ギターを鳴らす、という動作を繰り返していた。そのたびにジャンルもまったく違うような色とりどりの音が溢れてきた。
「すっごい。あの子のギター、なにも迷いがない」
「マジでそれ。速弾きも全然インチキじゃなくてしっかりリズムが出てるし、ジャズっぽいのもうまい。リフ弾いててもドラム聞こてくるみたいだし、持ってるギターはなんかすごいハードロックっぽい感じなのにこんな音出るんだっていうようなやわらかい音も出してる。ちょっと見たことないぐらいうまい」
二人はひとしきり試奏の少女を眺めてから会計を済ませ、店を離れた。ビルから出るとだいぶ日が落ちて、代わりに白っぽい月が上っていた。
「ね、さっきのギターの子、あの子って天才かな」
しばらく無言だった帰り道で、空楽が言った。
「うん。たぶん」
「うちらより、天才だよね」
「うん。たぶん」
「この町にあんなすごい高校生がいるなんて」
「もっと、他にもいるかもしれないよ。龍が嶺高校とか、東高よりもすごい軽音が盛んだっていうし」
並んで歩いていた空楽が立ち止まり、琴那は一歩前に出たところで振り返った。空楽は琴那の顔を見据えた。
「わたしたち、この町で一番のバンドになれるかな」
琴那は戻って空楽の肩に手を置いた。
「気が早い。うちらはまだバンドにもなってないじゃん。メンバー揃ってないもん。バンドをそろえて、メンバーが一つになって、それで一番になる。大丈夫、うちら天才だから」
「わたし、天才になれるかな」
「天才なんてなろうっつってなるもんじゃないでしょ。知るんだよ。あ、天才だった、って知る」
琴那は空楽の肩から手を放して親指を立てて見せた。空楽は曖昧な表情でその指を見つめた。
「なんて顔してるんだよ。うちは感じてるよ。空楽の天才ぶりを。空楽がわけわかんない感じで声かけてきたときに、こいつについていったらなんか面白いことが始まるって気がした。はじめてうちで音出したとき、震えるほどワクワクした。今も、ワクワクしてる」
琴那は腕を振り上げてもう一度親指を立てて見せた。
「空楽は天才。うちをワクワクさせる天才だよ」
空楽はやっと顔をほころばせた。空では月が次第に色を増していた。
《つづく》
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