もどかしさの理由
もどかしい。
もどかしい:期待通りに事が進まないので、早く何とかならないかといらだちを覚える気持ちだ。
新明解国語辞典 第七版
いや、さすが新明解。「もどかしい」の語釈がこれだけ。大辞林になると「じれったい」「はがゆい」という言い代えが載っているし「いらいらする」という書き方になっている。大辞林は二番目として「非難したい気持ちだ。」という語釈を載せている。もどかしいというのは形容詞なのに、語釈が形容動詞風なのが興味深い。大辞林の言い代えは形容詞として理解しやすいけれど、新明解の語釈一つだと形容詞としてはしっくりこないように感じる。
何がもどかしいのかといえば、書けることがないことだ。
エッセイ風の文章というのは、何を書いてあるかよりも誰が書いているかが重要だ。誰がというのは別に有名人でなくてもいいのだけれど、少なくとも何をしている人か、何をしてきた人かという情報は重要だ。
わたしは何をしている人か、何をしてきた人かという情報をオープンにしていない。そのため、書けることが非常に少ない。例えば昨夜、わたしは「センスの磨き方」という文章を書いた。下書きに入れて、公開していない。
なぜこれを公開しなかったのかというと、わたしがセンスを云々できるような人間なのか、という情報が無いからだ。これまで書いてきた文章から、文章に関するセンスみたいなものはうかがい知ることができるかもしれない。それだってわたしは自分に文章のセンスがあるとは思っていないし、もちろん文章のセンスについて書こうと思ったわけではない。
改めて、その手のなんらかのハウツーというか、ノウハウ、勉強法みたいなものって、誰が書いているかということがとても重要だなと思ったのです。そんなことを偉そうに言うおめーはいったい誰なんだ、という話に、どうしたってなる。
話は変わるけれど、わたしは自分が小説を書くためにということではなく、参考にするしないは別にして、小説読本の類が好きだ。小説読本というのはここではいわゆる、小説をどうやって書くのかについて書かれた本のことを指していると思ってほしい。
そういうものを読むにあたって、わたしが絶対に譲らない点がひとつある。それは、わたしが好きだと思える小説を書いている人の書いた小説読本しか読まない、ということだ。ぜんぜん知らない人の書いた小説の書き方なんてものを読みたいとは思わない。なぜなら、おめーはどんな小説を書いてんだよ、としか思えないからだ。
翻ると、どこの誰かも、何の実績があるかもわからないわたしがそんなハウツーみたいなことを書いたところで、おめーはいったい何を成したんだ、ということにしかならんよな、と思うわけだ。
プロフィールをぶちまければあれこれ書けることは増えるのだけれど、そうすると本名の私をペンネームのわたしが浸食することになる。
というごく私的などうでもいいジレンマに苛まれて、下書きがどんどんたまっていっている。これはダメだ、あれもダメだ、と。
で、今夜はそういうハウツーではないことを書いていた。単に好きなことを好きなように。そうしたら今度はあまりにも変態チックな話になって、これみんなドン引きしたらどうしよ、と思って下書きに葬った。削除でもいいような気もするのだけど、自分では読みたいものが書けたので残してある。
いやもうね、呑み書きで変態かもしれないとか書いたけど、変態だわ。好き勝手に書いたらひじょーにヤバいものができたもの。
「オマエ誰やねん系」と「うっわきもっ系」を避けると書くことが残らんのだわ。参った。
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