「読む」を考える
思えばこれまで大変な量の文章を読んできた。たいして読書家でない人であっても、日々かなりの量の文章を読んでいるだろう。SNS に流れているものも文章であるから、それはもう大変な量に及ぶ。
しかし。僕らは「読む」ということがどういう行為か、本当にわかっているだろうか。
それに挑んだのが、これの一つ前の投稿作品、「文瘴毒奔」である。
この作品は、世瞬舎という小さな出版社から出版された文芸誌、世瞬のvol.4 に掲載してもらったものだ。
上記リンク先をご覧いただくとわかるように、この本は現在売り切れで、再販の見込みが立っておらず、事実上の絶版となっている。そのため、ここに掲載してもらった「文瘴毒奔」について、note のメンバー限定という形で転載することにした。
※作品の転載については、編集長から「構わないけれどなるべく大っぴらにやらないでほしい」と言われており、本が手に入る間は本の購入を促す方向で宣伝したのと、絶版になって一年近く経過したことから、メンバーシップ限定という形で公開させてもらうことにした。
この「文瘴毒奔」という作品は世瞬vol.4 のために書き下ろした作品で、編集部からの依頼に基づいて書いたものだ。
本自体のテーマは「小説に親しんでもらいたい」というもので、僕に与えられたテーマは「想像する」であった。
小説とはまさに読者に「想像」をさせる表現であると思う。小説の表現は文章によって成され、読者がその文章を読むことで初めて表現が完成する。書かれただけでは表現になっておらず、読者の想像によって個々の読者の中に何かが築かれる。
読むとはなんだろう、と考えた。文章を読むというのはいったいどういう行為なのだろうか。そこにはあまりにも多くの暗黙の了解があり、僕らはごく当たり前に、その暗黙のルールが常に成立するという前提で文章を読んでいる。でも小説とは文章による表現であり、そこに制限はない。あらゆるルールは破ることができる。読者の中にある、あまりにも根源的な部分に根付きすぎていて意識することさえ難しいような暗黙のルールを破壊し、見落としていたものに目を向けさせることはできないだろうか。
その結果、あのような作品が生まれた。読んでもらうとすぐにわかるけれど、猛烈に読みづらい作品である。しかし、これは紛れもなく日本語でしか表現できないものであるし、おそらく、かなり日本語に精通していたとしても外国人には読むことさえ難しいのではないかと思う。まさにネイティブ日本人のための作品ではないかと思う。この作品はおそらくいかなる外国語にも翻訳できまい。翻訳はおろか、朗読することもできまい。
この作品の大部分は日本語として正しくない。極めて読みにくい。しかしここが最も重要なのだが、それでいて小説としてある種の表現になっている。
小説の面白さを伝えたい、という編集長の熱い想いを聞いたとき、僕は小説のなにを一番面白いと思っているのだろうか、と自問してみた。もちろん僕は、小説のこの無限の可能性にこそ、もっとも面白さを感じる。良い文章とは何か、といった探求など些末なことに過ぎないという深淵がある。
小説は芸術である。芸術にルールは無い。理論や法則はあるけれど、それは説明するために後からつけたものであって、芸術それ自体が理論や法則の内側に収まる必要はない。
文法はもちろん、文字までも破壊したこのような文章がそれでもなお小説であることこそ小説の面白さである。こんなものを読めるということが人の想像力の深さである。
映像化できない、朗読もできない、翻訳もできないものを書きたい。なぜならそれは小説にしかできない表現だから。しかし、そんな小説を出版社は欲していない。販路の大部分を自ら閉ざしているから。
でも面白いでしょ?
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