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遅読のススメ

 本を読むのが大好きだ。でも「読書家」とか言われちゃうと、ちょっと違うんだよな、と思ってしまう。

 わたしはちょっと不健康なほど、本ばかり読んでいる。読む速さは速くはなく、でもそれほど遅くもない。ただ、小説を読むときは、かなり遅くなる。特に好きな作家であればあるほど、時間をかけて読む。時間をかけて読んだ上で、さらに同じ本を何度も読む。

 Youtube 等を見ていると、「速読法」の宣伝が目に付く。なんでも高学歴の人や高収入の人はたくさん本を読んでいて、読む速度が一般的な人よりも速いから同じ時間で多くの本を読める、のだそうだ。

 それは別にどうでもいいのだけれど、もし、そういう話を聞いて、「そうなのか!本をたくさん読んだほうがいいのか!それには速読がいいのか!」と思ってしまい、意気込んで読み始めたら疲れてしまって、「ああ、本を読むのは楽しくない。自分には向いていない」とか思ってしまっている人がいるなら、そうじゃない読書があるよ、ということをお伝えしたい。

 わたしは自分でも小説を書いているけれど、小説を書く人は、おそらく小説をゆっくり読むはずだ。少なくとも速読で読み飛ばす、という人はいまい。小説を読み飛ばす人には、ろくな小説は書けないからだ(これは断言できる)。ストーリーは書けるかもしれないけれど、それは小説にはならない。

 ゆっくり読むことに価値があるよ、そこから得られるものは深いよ、ということをお伝えしたいのだけれど、わたしのごときどこの馬の骨かもわからないようなアマチュア小説書きが何を言ったところで大した説得力は無いので、しかるべき人の力を借りよう。

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 宮沢章夫の、「時間のかかる読書」という作品だ。

 この本はものすごい。横光利一の書いた『機械』という短編、わずか50枚ほどの短編を、実に11年もかけて読む、という恐るべき本なのだ。

 ちなみに宮沢章夫は劇作家であり、猛烈に面白いエッセイを書くエッセイストでもある。なお、『サーチエンジンシステムクラッシュ』という小説で芥川賞や三島由紀夫賞の候補になっている小説家でもあるので力を借りるのには申し分あるまい。

 正直なところ、わたしは彼の小説作品はあまりピンと来なかった。しかしエッセイは絶品である。わたしが宮沢章夫のエッセイに出会ったのは『牛への道』で、大昔に付き合っていた彼女の家にこれがあり、彼女が風呂に入っている間に読んでゲラゲラ笑い、すぐに自分でも買ったという思い出がある。

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 単行本も文庫も持っているのだけど、なんと文庫も絶版のようで、中古がアホみたいな値段になってますね…。新潮文庫さん、これは再販案件ですよ。これが絶版はあり得ない。笑撃のエッセイですから。電子書籍があるからいいっていうことなのだろうけれど、これ文庫は表紙がエンボスになっていてちょっと面白かったんです。

 と、話が横へそれたけれど、『時間のかかる読書』のお話。

 小説はじっくり時間をかけて楽しむ、というのをわたしもポリシーみたいに掲げているし、「速読法」みたいな話を横目に見ながら、そんなんじゃ小説の面白さなんてほとんどわからないぞ、と鼻で笑ったりしていたわけですが、さすがに50枚の短編を11年かけて読むという桁違いのスケールに脱帽した。

 この本の「はじめに」に、速読法について言及した部分がある。氏は、自分は本を読むのが比較的速いほうだ、としつつ、次のように述べる。

 だが、速く読む必要などなにもない。むしろ「読むことの停滞」の中にほんとうに大事なことがあると思える。そこで立ち止まり、考えるからこそ、読む体験の中から、意味のあることを獲得できる。
 だから、「速読術」というやつがわたしにはまったく理解できないのだ。たとえば、「詩」を速読することを考えればその無意味さがわかるだろう。ものすごいスピードで、たとえば、中原中也を読むこと、金子光晴を読むこと、アレン・ギンズバーグを読むこと……まあ、他にも多くの詩人の言葉を猛烈なスピードで読んだところで、いったいそれがなんになるだろう。

※太字は筆者(涼雨)による

 まさにその通りだ。詩なんて文字数だけを見ればものすごく少ないわけで、速読しようと思えば文字通り秒殺である。そこにどんな意味があるのか、どんな意味も無さそうなことは考えるまでもない。

 この本は、宮沢章夫のある連載エッセイをまとめたもので、11年と数カ月もの間、連載されたものだ。巻末に、その横光利一の『機械』が丸ごと収録されている。もちろん、本編よりも宮沢氏によるエッセイのほうがはるかに長い。連載の一回分で一行分も進まないことさえあるのだ。

 その停滞ぶりはさすがに度を越しているのだけれど、たった一篇の小説をこんな風に読むことができるのか、という面白さに満ちている。そして気づけば、わたしは自分の大好きな作品で、ほとんどこれと似たようなことをやっているのだ。一行読んではどんどん脱線して妄想を膨らませ、しばらくして我に返って次の行を読む、といったことだ。もちろんさすがに50枚に11年かけるようなペースではないけれど、それでも50枚の短編に数日かかるような読み方はする。

 長編でもいくつか、そういう読み方になってしまうほど好きな作品がある。ときどき取り出してきてはまたえらい時間をかけて読むのだ。

 ここでは小説に限定して書いたけれど、もちろんどのような文章に対しても、やろうと思えばこの「遅読」は可能で、わたしはときどき、小説以外の文章についても意識して脱線しながら読むことがある。不思議なことに、そうすると書かれている内容とは別の何かを得ることができるのである。

 秋の夜長、と言いつつ私の住んでいるところは今日雪が積もったので秋って感じじゃないけれど、冬の夜はもっと長いからいいのだ。その夜長に何度も読んだ大好きな本をもう一度取り出してきて、今までにないぐらいゆっくりと、アホかなと思うほどの時間をかけて読んでみてはどうだろう。新たな本をどんどん消化するよりもずっと意味のある時間を過ごせる、かもしれませんよ。

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涼雨 零音
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