なぜ、書くのか
サトウ・レンさんがこのようなnote を書かれた。
「一度でも繋がってくれた方」とあって、わたしはサトウ・レンさんと相互フォローになっているし、回答できるかどうかはともかく、考えてみようと思いました。
クエスチョンは二つ。
Q「もしnoteにたったひとつの記事しか残せなくなったら、どの記事を残すか? あなたの里程標となる一作を教えてください」
Q「何故、あなたは書くのですか?」
もしnoteにたったひとつの記事しか残せなくなったら、どの記事を残すか?
まずはこの問い。
うーん。考えた。かなり。実はわたし、マイページに固定note を設定していない。常に最新のものが一番上に来るようになっている。なぜか。それは、常に最新のものが最高であると思うから。
これはもちろん、ものすごい向上心で必ず前よりいいものを書くんだ、とかそういうすさまじい話ではなくて、どうでもいいようなつぶやきであれ、それが一番新しいわたしだ、というぐらいの意味です。だから自分の思い入れ云々とかそういうことは置いといて、一番新しいものを一番に見せる。見せたいのかと言われたらそうではないかも知れないけれど、でもどれから見ればいいですかと問われたら「新しいのを見て」と言いたい気持ちはある。
自分が読む側であれば、たとえばなにかものすごく好きな小説に出会った場合、その作家の一番古い作品に戻って古い方から順に読む。それはその人のたどってきた道を並んで体験したいという欲求による。でもたぶんご本人からすれば、新しいのを読んでほしいだろうなと、思う。
固定したい記事がない、という状況で「一つだけ残すとしたらどれか」という問いを考える。最新のものだけ残す、でいいのか。いいような気もする。例えばわたしが今これを投稿して直後に死んだ場合、一番上にはこの投稿がある。それが遺言のようになるとして、それでいいような気がする。内容がどうであれ、わたしが最後に投稿したもの、それこそが残すべきものであるような気がする。それがたとえ「毛抜きで鼻毛を抜いたら血が出た」というつぶやきだったとしても。
何故、あなたは書くのですか?
続いてこちらの問い。まず、この問いを見て思う。「何を?」と。
もちろんこれはサトウ・レンさんの問いの不備を突きたいわけではなくて、わたしは何か問われたら何を問われているのかをまず明らかにして考察したい、という思いが強い。前提条件を洗い出してから考えるのは数学が好きだからかもしれない。
さて、なぜわたしは書くのか。「何を?」
この「何を?」は実はあまり自明ではなくて、それほどひねくれて考えなくてもいくつかの候補が出てくる。例えばnote。なぜnoteを書いているのか、noteというサービスを利用している理由、そこに投稿する理由。次にもっと広く「文章」。なぜ文章を書くのか。もちろんそれがお仕事だという人もいるけれど、仕事ではない文章を、書いても書かなくても誰にもとがめられないものをなぜ書くのか。あとはカテゴリを絞って、小説、エッセイ、日記、短歌、俳句、詩、エトセトラ、エトセトラ…。
なぜ、書くのか。対象が異なればその理由も異なる。それを思いつくままに書いてみる。
なぜ、わたしはnote を書くのか
これはわたしの場合、なぜnoteというサービスを利用しているのか、というのと近い。note を使う=書く、という等式は間違っていて、本当は等式ではなくて包含関係だ。「note を使う」の中の一部として、「書く」がある。なにも書かずにnoteを使用する方法はある。読み専はもちろん、絵や音声しか上げないといったことも。
さしあたりわたしの場合はnote を使うのとそこに何かを書くのはほとんどイコールだ。なぜ書くのかというと、書くことがコミュニケーションにつながるからだ。絵や音を上げてもコミュニケーションできるだろうけれど、さしあたり今わたしが求めている関係は文章を媒介するものであるというか、ひとまずわたし自身はそのように感じている。だから書く。
なぜ、わたしは文章を書くのか
文章を書くということを意識したのは、小学校の高学年のことだ。なんでも好きなように書いていいという作文の授業で、書けば先生が読んでくれる、というのがあった。そこにわたしは、ドタバタのスペースオペラみたいなものを書いた。
広い意味での文章を外に向けて書き始めたのは中学生のころだ。プロフィールのnote にも書いたけれど、雑誌の読者投稿欄に載るのが楽しくて書いた。音楽メディアの雑誌に「音楽を聴く」という行為に関する考察のようなものや、あるアーティストについての考察などを書いては送っていた。
インターネットが普及し始めてからはネットに文章を書いている。自分のホームページの日記コーナー(まだブログという言葉はなかった)、mixi の日記、ブログ、Facebook、Twitter と、あれこれにいろいろなものを書き散らしてきた。
なぜ書いたのかを振り返ってみると、誰よりもまず自分が読みたかったからだ。わたしは自分の書いたものを読むのが好きで、mixi などは主に自分が笑えるようなものを書いて読み返しては笑っていた。
なぜ、わたしは小説を書くのか
もともとわたしは何かを表現したい。幼いころから何かを表現したいという欲求がある。それは歌であったり音楽であったり絵であったりした。最初に意識したのは小学校へ上がったぐらいのころ、映画を作る人になりたい、というものだった。それから歌手になりたかったこともあるし、将来の進路として具体的に思い描いたのは楽器の演奏家であった。
みょうちきりんなショートフィルムを作ったこともある。写真を撮るのも好きだ。ヘタクソだが絵も描く。
とにかくなにかを表現したい。それによって誰かの心を動かしたい。そういう思いがあって、表現形式は次第に変化しているけれど、常になにかを創っていたい。数年前、初めて小説を書いて、ああこれだ、と思った。果てしない可能性を感じたし、なんでもできるという全能感があった。
小説を書くと、自分が意識の奥底で何を考えているのかがわかる。意識の上層で考えていることは小説を書かなくてもわかり、それはこういう文章を書いているときに、「わたしはこう思っている」と書けるようなもののことだ。小説を書いてみると、そういう上層には出てこない、もっと深いところにある問題意識みたいなものが見え隠れする。これが、「テーマ」だと思う。
小説が扱う題材が何であれ、その人が書くものには通底した「テーマ」がこもる。その「テーマ」は意識下に根を張った思考の原点みたいなものだ。意識して「こういうテーマの小説を書こう」と思うのではなく、テーマというのは無意識にこもってしまうもの。その自分の意識下に潜んでいるテーマに出会えるから小説を書く。それは普段のインプットの中で拾われていく共通項の中にある。例えば好きなトピック、わたしの場合それは数論だったり、精神病理学だったり、脳認知科学だったり、教育問題だったり、人工知能だったり、性の多様性だったりする。一見無関係な興味の対象の中から、わたしの中の何かが共通項を拾い出し、意識の下層に埋め込んでいく。小説を書くことによって、その埋め込まれた何かが自分の作品の中にこもっていく。それは書き終えてしばらくして、読み返したときに見える。ああ、わたしはこういうことを考えていたのか、こういうことに興味があるのか、ということがわかる。
この現象が他では得難い快感をくれるのですね。だから小説を書くことをやめられない。麻薬みたいなものです。
なんらかの結論
結局、わたしがここに長々と書いてきたこれも自己分析だ。このような面倒なことをあれこれ考えて文字にし、それを読んで自分でいろいろ発見する、ということが楽しいのですね。そういう意味で、別に人様に見せなくても良いというか、人の目に触れないところでやれという話もあるのだけれど、誰にも見られないところで書くのと、誰かに見せる場で書くのではやはり何かが異なる。たとえば「自分を偽って良く見せよう」とか、「盛ってやろう」とかいう自己顕示欲が頭をもたげてくれば、自分の中のそういう欲求に気づくことができる。誰にも見せないものを書いていると、それは純粋に自分だけに向けたメッセージになり、意外なものが出てきにくい。
たぶんわたしは、自分の意識下でコントロールできている範囲の外側にあるものを見たいのだ。だから、文章を書いているのだと思う。