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「10年前に戻ったら」by きたとうま

桜と共に鴨達が泳いでいる。
もうひとつ前の季節までは、みな同じ大きさだった気がするが、いつの間にか小さな鴨がちらほら見えた。
大きな波紋ののちに小さな波紋が近づき、やがて一つになる。
木陰から木陰へ。合流したらまた次の木陰へ。
上流へ。上流へ。
それが彼らの流儀らしい。

全ての桜が流れ、世界と木陰のコントラストが強くなった頃、波紋の大きさは同じになっていた。

そして夏が来た。
彼らは夏休みの旅行にでも行ったみたいだ。
日中出かける気分にもなる時期にまた戻ってくるだろう。
彼らは冬休みも旅行へ行く。
そしてまた小さな波紋が広がる頃、私も一つ年輪を増やす。


さて、私たちがこのコラムを始めてからやがて2年になる。
その間にはメンバーのライフステージの変化や、それに伴う環境、考え方の変化があった。
「記憶と音楽」や「表現とユーモア」などのコラムはすでに懐かしさすら感じる。
懐かしいということはつまり、変わったということだ。
R.a.F.のメンバーとは沢山の懐かしい記憶がある。

私のR.a.F.のメンバーとの最初の記憶は約10年前だ。
玉名のライブのイベントにそれぞれのバンドで出演し、インドカレーを食べて、帰りの車でほかの人も含めておしゃべりをした。
会話の内容や細かいことは何も覚えていない。
ただ、「この人たちは私と同じか、それ以上に悩みながら生きていくんだ」と感じたことを強く覚えている。

私は高校生になったばかりで、交遊も行動範囲も経験も加速度的に増えている時期だった。
当然、失敗したと感じる経験も増えた。
ああすればよかった。もっとうまくやれたんじゃないか。
今でも後悔するような失敗もある。
だが、時の流れは不可逆的なものだ。
川は山を登らない。
だからこそ、時の川に反射する光は美しい。
そう自分を納得させ、清濁併せ吞む。
私たちは時の流れに体を任せ、ゆらゆらぷかぷかと、たまにさす光の暖かさを感じて生きてゆく。

そんなことは分かり切った上で、もし10年前に戻ることができたとしたらどうするだろう。
今の記憶のままで、10年前の自分になる。
これは自らを省みるためではなく、娯楽のための思考だ。
だから、バタフライエフェクトは考えなくてよいものとする。

失敗を避けようか。
人との出会い方、関わり方を変えようか。
はたまた、今はもう会えないあの人に会いに行こうか。
君は何をするだろうか。

私はきっと、何もしない。
いや、正確に記すと10年前の自分と同じ行動をする。
何かを変えるわけではなく、また同じ経験を全力で楽しみたい。

レポート終わりのつけ麺。
バンドの曲順決め。
友達とラインしながら見たホラー番組。
持久走中の葛藤。
他校の文化祭。
初めての東京。
焦がした大学芋。
自分の汗か人の汗かもわからないライブハウス。
緊張して言えなかった言葉。

思い出せないけど自分を作った沢山の経験がそこにはあるだろう。
もし10年前に戻ったら、また感じてみたい。このコラムを書いている間、私は記憶を辿ることで10年前に戻っていたのかもしれない。
あの頃の気持ちがしんしんと心に降っている。

記憶に頼る以外にも方法はある。
写真や日記、音楽の栞。思い出話。
記録によって私たちは過去を旅行できるのではないか。

感情や思考は変化する。
だかそれは生まれ変わっているのではない。
過去の自分に積み重なり、一回り大きな幹となる。
私の過去全てが年輪に刻まれている。
懐かしい過去の分、成長している。
そしてこれからも。

また10年後、ここに戻ってくるためにこのコラムを綴る。

R.a.F. ドラム担当 きたとうま  


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