発達障害を受け入れて(9)
人の気持ちがわかりにくい
『空気を読む』という言葉が流行したのはずいぶん前のことになる。
発達障害を持つ一部の人は『他人の気持ちを想像すること』が苦手だと医師から聞いた。
自分勝手とか自己中心的とかいうことではなくて根本から、誰かの気持ちを汲むこと、相手が望んでいることを考えるのが難しいようだ。
それを『思いやりがない』と勘違いされてしまうことが多く、損をしている。
例を挙げると、友達や家族の誕生日を祝ってあげるなどは苦手で、祝いの日の当日にプレゼントを渡す必要を感じなかったりする。
祝う気持ちはあるのだし、プレゼントも買ってあるのだし、今度会ったついででもいいか、みたいな気持ちになってしまう。
相手は誕生日を忘れられたとショックを受けたり、まったくかけ離れた日にプレゼントをもらってもピンとこない。
母の日、父の日など、バレンタインやホワイトデーなどの行事に意味を感じない。
冷たい人とは思わないでください。
ただそういう決まりきった商業的な行事に意味を感じられないだけ。
自分の誕生日を祝ってもらっても、そんなに感激はしない。まあいつもより今日はハッピーだよね、くらいに感じていると思う。
だからもらったプレゼントを包装も開かないでしまいこんでも、別にいらなかったというわけでもない。
一応『祝ってもらった喜び』はある、と思う。
なにかの行事をみんなで一緒に祝おうというときは、どうしてその行事をするかの必要性を説いてあげて、納得すれば盛り上げる手伝いはする。みんなと同じテンションにはならないかもしれないけれど。
『他人を思いやれない』ということは『自分のこともそんなに大事ではない』ということにつながっている。
誰かがひどい目に遭ったら「わあ、かわいそう」と思うけれど、そこから行動に発展しにくい。
ですが、ここぞというときは自分を投げ出しても誰かのために動ける熱い気持ち(過集中)は持っています。
一方で、自分がひどい目に遭って「困った……」と思っているはずなのに誰かに助けを求めないし、好きなことに過集中して辛いことを忘れられる。忘れているけど、また現実に向き合ったときに困って、また過集中してごまかして、また現実で困ることを繰り返していると、だんだん疲れてくる。
(もしかしたら困っていることを相談できないのかもしれない。
困っていると伝えるためにはどうしてそうなっているのかを話さなければならないが、どこから困り始めたのかを考えていくと、長い説明になってしまうので頭が疲れるから話さないのかもしれない。)
疲れてくると周辺の誰が見ても挙動不審になってくるので、わかる。
自分を大事にすることができないので、周囲に振り回されてどうしていいかわからなくなっているとき、相手に叱られることが怖くて、『求められていることをできない』のが怖い。ミスが怖いけど、怖がっているからミスをするという負の連鎖になってくる。
そういうときはゆっくり休ませて、自分を取り戻すしかないが、そこまで疲れてしまうと、自分が疲れていることさえわからなくなっているので、「あなたには休養が必要だよ」と説得が必要かもしれません。
そこまで困ることにならないうちに、まわりの人が「働きすぎでは」「無理をしていないか」注意してあげましょう。
困っている様子はないか、たまに話を聞いてあげましょう。
親から育児放棄を受けていましたので、自分の子供は愛情深く育てようと頑張ってきました。ところが、子供が就職してすぐに発達障害を発病し、そこから長く苦しい時間が過ぎました。それらの日々を誰かに語ることなく過ごしていましたが、自分が苦しくなって、書き記したいと思うようになりました。