【急行ゴンドワナ 1】宮城県 青根温泉・湯元不忘閣
Noteではテーマ別に列車名で分けて表記している。温泉宿をテーマにしたこの「急行ゴンドワナ」シリーズで最初に取り上げるのは、蔵王火山のマグマが沸かす青根温泉を代表する湯元不忘閣だ。
戦国末期から江戸初期にかけての英雄、伊達政宗が当時の湯守にここを忘れるまいと言ったことから名付けられたといい、その時から数えると5世紀近い歴史を誇る。コロナ後急速に普及した客室露天風呂は無いが、ここは個浴では無く温泉と建築(国の登録有形文化財が7棟もある)を楽しむ宿だ。客室が14に対して温泉が6か所あるので、2か所の貸切風呂以外もたいがい貸切状態だった。
この「大湯」は、浴槽の石造り部分の一部は16世紀半ばの室町時代末期から使い続けている歴史を持つ。江戸時代に入ると藩主家専用とされ、近年は公衆浴場も兼ね宿泊客出入口(左の階段)に加えて銭湯客出入口(右)もあったが、2008年の大改装を機に宿泊客専用となった。この時のリフォーム業者の腕が秀逸で、丸太を豪快に組み上げ、ぼうっと照らし上げる絶妙のライティングは素晴らしく、ぎらつく蛍光灯が安っぽい白壁を照らしていた銭湯時代とはとても同じ大湯とは思えない。湯船の面積は銭湯時代の半分になったが、それでも泳げるほど広大だ。
この「新湯」(伝・1528年頃開設)も伊達政宗が利用したと伝わる。
「亥之輔(いのすけ)の湯」(貸切式)は半露天で、にじり口のような戸を潜って入室する。階段の下にあり、狭いが不思議な空間だ。
舞い込む雪で冷えた日本酒をなめながら入る鄙の温泉は最高である。
名湯の多い不忘閣でも一番人気はこの「蔵湯浴司(くらゆよくす)」だろう。穀物倉庫だった蔵を改装した貸切湯で、左上は裏手、右上が表だ。
本館廊下脇の蔵の湯入口に貸切札を立てかけて廊下横の扉を施錠して利用する仕組だが、そこから先の蔵の湯へのアプローチから既に異世界だ。雪国らしくスノーシェッドで覆われ昼もほの暗い蔵前通りを奥まで進むと、ここでも「日本秘湯を守る会」の提灯が迎えてくれる。右下は蔵の湯の引戸の重厚(実際重い)な引き手だ。
ここも絶妙なライティングでほの暗い空間の中に透明な湯がきらきら輝く大きな湯船に浸かり一蔵丸々独占できる贅沢を楽しめる。暗闇の中ライトアップされる無人の舞台上で独り裸で寛ぐような感覚と言えば伝わるだろうか。蔵湯の完成は大湯の浴槽縮小工事の翌年なので、余裕のできた湯量をこちらに回したのだろう。名案である。
不忘閣本館は昔の湯治場の面影を残す名建築だ。当時の簡素な室内が1か所残され(右下)見学できる。タイムカプセルのような粋な演出は群馬の積善館と同様だ。浴室内で放尿を禁ずる等の大正時代の浴場取締規則なるものの抜粋も掲示されている(上)が、当時はそういう利用客もいたということなのだろう。
本館2階の昔の湯治客室は現在は食事用個室として利用され、素晴らしい和の雰囲気の中で夕食と朝食を戴くことができる。手造りの床板や手摺も、つるぴかの合板に変えずそのまま残しているのも好ましい。
本館の白眉は、二階の青根御殿側の三方が木枠窓に囲まれた明るくウッディな一角だ。
私はその写真を建築雑誌で見てその美しさに惹かれ、無粋なアルミサッシに変えられたりする前に早々に訪れようと決めた次第だ。
伊達藩主家を迎えた青根御殿は惜しくも明治期に焼失したが、同家の元大工が1932年に同じ建築様式で再建、レプリカながらこれも国の登録有形文化財に指定された。左上は本館から御殿への渡り廊下、右上は伊達家家紋、下奥は輝宗(政宗の父)の甲冑。右奥は藩主の間で、一段高くなっている。
有名な鳥形花押が描かれた伊達政宗の書状。秀吉に謀反を疑われた時、政宗は「偽造防止の為に真正な花押には鳥の目の部分に針で穴を開けているが謀反の証拠とされた政宗書簡には穴が無いので偽物だ」と弁明した逸話がある。針の穴らしきものは見えないこの書状も偽物でしょうか、政宗殿 (^^)。欄間にも伊達家の家紋が彫り込まれている。NHK大河ドラマにもなった「樅ノ木は残った」は山本周五郎が不忘閣で執筆し、そのモティーフになったという樅ノ木は今も青根御殿の脇に立っている。
不忘閣のPにはEVスタンドもあり元伊達家定宿もちゃんと時代に対応しているが、積雪のある冬季は仙台から高速バスが無難だろう。
伊達政宗は仙台城近くの瑞鳳殿(左上)に眠っている。伊達男の語源になっただけあって霊廟もど派手な桃山様式だ。3代藩主までの廟も近くにあるが、意匠は段々バロック度が減り落ち着いていく。廟をずらりと囲む、殉死した家臣の冷え冷えとした墓石の放列が、凄まじくも痛々しい。