てんぐのノイエ銀英伝語り:「真なる中立」としてのノイエ版トリューニヒト
昨日の記事でちょっと触れ損ねたんですが、ノイエ版トリューニヒトってどうにも気持ち悪いんですよね。それも、原作や別媒体とは明らかに異質なんです。
ノイエ版トリューニヒトの異質さ、訳のわからなさについては、前に書いたこの記事でも触れてました。
ただ、あれからだいぶ経って、今週の銀河帝国正統政府受け入れやラインハルトからの宣戦布告を受けてからの反応を見ると、もっと訳がわからなくなります。
まず、大衆煽動政治家と言われる割に、当節流行の、デマでも非常識でもお構いなしに大衆に熱狂を与える当節流行のポピュリストとは、ノイエ版トリューニヒトはだいぶ趣きが違います。むしろ、「間違ったこと」は決して言わない、それによる失点は絶対にしないところが特徴です。
これは、責任ある地位にあると自覚する政治家であれば言わないわけにはいかない、大衆社会が望まない現実を直視させたり、その過ちを非難の矛先を向けられようとも修正するという責任も負わないという無責任さとも言えます。
帝国領侵攻作戦でも、反対票を投じそれを明記するよう求めながら、抗議の国防委員長辞職もしていませんでした。
でも、こういう無責任さを「邪悪」と呼べるのかというと、これもまた疑問があります。
となると、ノイエ版トリューニヒトの気持ち悪さというものは、邪悪さの発露によるものではない、むしろ、その「邪悪さ」が極端に拭われているようにすら見えます。
そもそも、「邪悪さ」というものは決して褒められたものではないにしても、それは「人間味」ではあります。ホワン・ルイだけでなく、今週ちょっとスポットが当たったウォルター・アイランズにある、俗気や卑小さも、そんな「人間味」の一種です。
では、その「邪悪さ」や、あるいは他の「人間味」を内面に持たず、ただ「間違っていない」ことしか言わない存在は、人間だと思えるでしょうか。
トリューニヒトというキャラクターをアライメントで表現すると、他媒体だと「秩序にして悪」ですが、ノイエ版に限っては「真なる中立」であるように見えます。
そして、「間違っていない」ことだけを求め続け、自らが何者であるかを自覚しその責任もいかなる形でも背負わない「真なる中立」的な価値観を徹底的に責任回避させる形で表現されたものが、ノイエ版トリューニヒトの、あの人間味のないのっぺりとした顔ではないでしょうか。