てんぐの五輪観戦記:柔道混合団体決勝戦に思うこと
昨夜は柔道混合団体決勝戦を見てました。
いやあ、本気で悔しかったし、それくらい興奮しながら見てました。
この興奮って、「国別対抗戦」だからなんでしょう。そして、この興奮こそ「同胞意識」と呼ぶべきものなのでしょう。
とまあ、理屈で言えばこうなるのでしょうが、もっと単純に感じたままのものが正解なのかも。
そして、この感情を大切にできない人の言葉に、政治を含めた社会を動かせる説得力も宿らないのではないか、日本のリベラル左派に足らないもの、世間から浮き上がってしまうのも、この感情を理屈だけで作った善悪による判定で全否定するところにあるのではないか。そんな風にも思えてきました。
また、こういう国際大会のたびに出てくるのが、「今のは柔道じゃなくJUDOという別物だ」「畳の上で感情を露わにする外国選手は武道の礼儀を知らない」式の非難が湧いて出てきますが、それに触れるたびに「くだらないことを言ってるなあ」と不快感も湧いてきます。
そんなの、外野が自分の望んだ結果じゃなかったから出てくる恨み節からの難癖でしかないでしょう。それこそ武道の精神からはかけ離れてます。結果こそが何より重いというのが「武道」の「武」の本質のはずです。そんなことは選手が誰よりも理解しているでしょう。
逆に、世界で共有する文化としてのスポーツだというなら、それは日本人だけでなく、フランス人もアメリカ人も韓国人もブラジル人も、参加する選手と地域が納得できるものでなければならないはずです。それはルールだけでなく、会場での振る舞いなどに対する価値観についても同じはずです。
「日本は柔道母国である」という誇りを大切にしたいなら、自国だけでなく全ての選手へ敬意を示し、全ての地域が納得できる環境整備を模索する機運を養うべきです。
それこそが、嘉納治五郎が望んだ世界ではないでしょうか。