昭和のゴミの捨て方
昭和の時代、燃えるゴミ、空き缶と空き瓶、生ごみ、それぞれの捨て方があった。
ちなみに、「市指定のゴミ袋」というものはなかった。
団地の一角に焼却炉があり、その鉄の蓋を開けて、燃えるゴミを入れた。火がついているときは、熱風で顔が熱くなった。
瓶用と缶用の鉄の蓋も別にあった。
私はいつも祖母に手を引かれ、その焼却場にゴミを持って行った。焼却場のそばには、沈丁花(じんちょうげ)が植えてあり、その度に祖母は「沈丁花の花だよ。」と教えてくれた。香りもかがせてくれた。
生ごみはというと、団地の建物の中にある、「ダストボックス」から落下させる!
各階段の踊り場の壁に、鉄製の蓋がある。パソコンくらいの大きさで縦開き(今のオーブンレンジのっ開き方)だった。太めの煙突の中を生ごみが落下していく仕組みだった。
夕飯が終わり、しばらくすると「ダストボックスに入れてきて。」と生ごみを渡される。夜の団地の階段は静かすぎた。生ごみをダストボックスに入れて蓋をすると、時間差で「バシャッ。」という音が響いた。
各階から落下した生ごみは、1か所に集まり、朝になるとトラックが回収しに来た。
回収作業のおじさんたちは、手際よくビニール袋を荷台に放り上げて積んでいく。それを4階の窓から眺めていた。
やがてトラックは、次の回収場に移動して行く。
小さいときは、「焼却場」と「焼き場」を混同して口にしてしまい、よく注意されたのを思い出す。
祖母が困ったように、やさしく「焼き場って言っちゃだめだよ。」と言った。
団地の中の焼却炉。今の時代では考えられない。あの頃は一度も事件事故なく、生活の一部に溶け込んでいた。
鉄製の蓋の思い出。