radish

ふと思い出したこと。懐かしい思い出。 チャレンジしたこと。還暦女子の作文です。

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最近の記事

”還暦”といわれるこの1年を振り返って思うこと

私にとっての還暦は、「転換期」だった。 人生を航海に例えると、一旦エンジンを止め,最寄りの港に停泊。すべての荷物を降ろして、私はこの先どこを目指していこうか…。風見鶏を見上げて、ゆっくり周囲を見渡してみた。時代は大きく変化していた。便利になっていたのではなく、自分は時代の、航路から完全にズレていた。いつの間にか周囲は”外国”だった。日本語さえ通じていないと感じることが多くなっていた。 あと何年生きるのか。私にもわからない。明日人生が終わるとして、公開はないだろうか?今テクノロ

    • AI体験2つ目

      2つ目はAIカフェ。JR新日本橋駅からすぐ。自動ドアを入ると、AIのカフェ席か、普通のカフェ席のどちらかを選ぶ。もちろんAIの席を選んだのだが。1ドリンク付きで1500円でした!(意味わからん。ぼったくり。)店内は外国人が多く英語が飛び交っていた。カウンター席あり、ボックス席あり。入り口の、レジカウンターのスタッフさんにアイスコーヒーを注文し、支払いをすると「レシートは紙・ネール・ショートメールのどれにしますか?」と聞かれメールを選び、店のタブレットにメアドを入力。これが案外

      • AI体験記

        半世紀ぶりに夏休みの課題を自分に課して、「AI]を体験してきた。1件目は、高輪ゲートウェイ駅にある、無人コンビニ「touch to go 」。ホームからエレベーターを安生がると目の前に、全面ガラス張りのこじんまりとしたコンビニが見えた。駅の改札内にあるためか、商品はドリンク・お菓子・サンドイッチ・おにぎり・少数の筆記具くらい。雑誌や日用品ははなかった気がする。決済方法は、電子マネーのほか、現金も可能。買いたい商品を棚から手に取ってレジに行くと、画面に買った商品の名前と金額が表

        • 2回目のメリーポピンズ

          今春。ミュージカル「メリーポピンズ」を観に行った。  「メリーポピンズ」は2回目だ。  中学2年生の冬、初めて友達と二人で映画を見に東京まで出かけた。確かテアトル東京。今はもうない。ミュージカル形式の映画だった。  主役のジュリーアンドリュースの歌声が、素晴らしかった。なんの知識もなかったが、「この女優さんすごいな。」と思った。のびのびとした張りのある声、きれいな発音、そして何より生き生きとした表情で歌う姿に、見とれてしまった。  「あんな風に歌えたら、楽しいだろうなぁ。」と

          昭和のゴミの捨て方

          昭和の時代、燃えるゴミ、空き缶と空き瓶、生ごみ、それぞれの捨て方があった。  ちなみに、「市指定のゴミ袋」というものはなかった。  団地の一角に焼却炉があり、その鉄の蓋を開けて、燃えるゴミを入れた。火がついているときは、熱風で顔が熱くなった。  瓶用と缶用の鉄の蓋も別にあった。  私はいつも祖母に手を引かれ、その焼却場にゴミを持って行った。焼却場のそばには、沈丁花(じんちょうげ)が植えてあり、その度に祖母は「沈丁花の花だよ。」と教えてくれた。香りもかがせてくれた。    生ご

          昭和のゴミの捨て方

          火事 その2

           小学4年の時に、教室が火事になった。  その日は、土曜日で午前中で授業は終わり。家で昼ご飯を食べてから、学校の校庭に集まって、みんなでサッカーをして遊んでいた。  突然けたたましい消防車のサイレンの音がどんどん近づいて来た。みんなはサッカーを中断し、「火事だ、火事だ。」と騒ぎ出した。  数台の消防車は、迷うことなく校門から入り、こっちに向かって直進して来た。今風に言うと、「はぁ?」「聞いてないよ~。」「どゆこと?」という感じ。  振り向くと、2階の4年2組の我が教室の窓から

          火事 その2

          火事 その1

           遠い遠い昔。  祖父母と3人で、信州の竹やぶの家にいた時のこと。  たぶん、4歳くらいだったかな。  「子供を連れて早く逃ろ!!」と祖父が叫ぶ声が外から聞こえた。  いつもは太く低い祖父の声が、高く裏返っていた。  気づくと、はっぴを着たおじさんたちが、家の周りに集まっていた。  竹やぶから火災が発生したらしい。  おじさんたちは、家の水道から水をくんで、次々とバケツリレーを始めた。その横で、私は祖母と立って見つめていた。  火は消し止められ、けが人もなかったが、たくさんの

          火事 その1

          田舎のおもいで

           両親は信州の出身。長野県の人は、「長野県」とは 言わず「信州」という。父の実家は山の中腹にあり、母の実家は竹藪の中にあった。「かぐやひめ」の挿絵を見たとき。そっくりと思った。  父の実家には、夏休みに数回遊びに行った。寒すぎて冬休みには行かれない。  隣家はみあたっらず、よろず屋さんが一見、山を下ったところに あった。  空を見上げると、無数のトンボが飛んでいた。人差し指を突き出して、腕を高く伸ばすとすぐにトンボがとまる。そーっと親指と人差し指でトンボの足をつまんだ。図鑑で

          田舎のおもいで

          コッコのはなし

           住み慣れた団地から、戸建てに引っ越して間もなく、父がバイクの荷台に一羽の鶏を積んで帰宅した。 「養鶏場からもらってきた。」と言う。次に父は材木を荷台に積んで帰宅。鶏小屋を作った。 その小屋に、もらってきた鶏が置かれた。白いはずの羽は、不健康に黄ばんでいて、フンが所々についていた。毛並みも悪くバッサバサで、艶はなく、ウルトラマンに出てくる"ジャミラ"のように、妙に羽の付け根が浮いていた。  「本当に鶏なの?」という感じだった。  しかも臭い。5才だった妹は、鼻をつまんでいた。

          コッコのはなし

          津田沼パルコの閉店を聞いて

          津田沼のパルコが閉店すると知り、「えっ」とびっくりした。 昭和52年(1977年)「津田沼デパート戦争」が起きた。 JR(当時国鉄)津田沼駅から新京成津田沼駅までの区域に様々なデパートが乱立した。 中にはオープンしても競争に勝てず、閉店していきそこへ新たなデパートがオープン…といった状況が何年か続いた。その中でも、パルコだけは、開店してからずっとあの場所で営業を継続してきた。  それ以前の津田沼駅前は、「サンポー」という4階建てほどの小さなデパートがあるのみ。1階に不二家のケ

          津田沼パルコの閉店を聞いて