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奥信濃への道 第22走:彼は突然に先を急ぐ
「オッチーさん、絶対、最初から飛ばしていくと思うわ」
小林はマツダとの内輪話について、私からは特段聞いてもいないのに俺にそう言って暴露した。小林はそういう男だが私はそれが好きでもあった。そんな事を言われては”男が廃る”と期待通り最初からペースを守らないなどと愚行を行うほど私は甘くない。
不思議と緊張はしていない。目を三角にしてライバルたちと順位を争っていたシクロクロスとは違い、今回の敵はその土地と己自身。
目標としていた奥信濃50㎞レース、スタートの合図はあっけなく鳴った。
飛び出すことなくスキー場のゲレンデを徒歩で登り、下りはジョグペースで走る。アップも何もしていないのだから身体を慣らすための段取りが必要。しばらくして平坦のシングルトラックに入るがペースは思っている以上にゆっくりとし、これが50㎞を走りきるために必要なペースなのかと感心した。そしてその時に感じたペースは後半に行くにつれて身体を守ることになる。
5㎞地点にファーストエイドがある。所詮アップ的な5㎞なので全く水も減っていないし身体も元気である。これから始まる10㎞の登りに向かって補給をするのだが、マツダは水補給だけで行ってしまい、この時以来彼をゴール後まで姿を見ることはなかった。
のんびりとエイドを満喫していたせいで少し遅れを取ってしまった、挽回するために登りに取り付くが渡河ポイントが連続し、ランナーの列が渋滞を成している。他のランナーと談笑しながら列が動くのを待つしかなく、タイムロスも非常に大きいが仕方ない。これを事前に予知して捌けるほどのノウハウは持ち合わせていないのだから。
最初の渡河はソックスを濡らしたくないと思い、丁寧に木の上を渡ったが、暫くしてそんな行為は無駄だと気づく。泥沼もしくは川に足を突っ込むしか先に行けないのだ。さらに沢横に整備されたルートは前日までの雨を存分に含み言葉通りの泥沼を形成し行く手を阻む。私も一度泥を避けようと石に乗ったが浮石だったため転倒しかかった、危ない川に落ち、ここで終わるところだった。
コンディション的には厳しかったが順番待ちで抜きどころも少なくペースが遅かったこともありダメージがほぼ無く、山を登り切ってしまった。そしてこの後山の上で開けた空は一気に曇天から雨天へと変わって行った。