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しょーもな、

ここからの文章は期待はせず、しょーもな、って思いながら見てください。

21歳にもなって言葉の扱いについてほんとに慎重になった。
さらに言えば、その重要性が腑に落ちるようになった。
言葉の扱いと言っても問題視される誹謗中傷関係の
悪口だけの問題とは思ってはいない。

当然だが、私の思いを、今読んでいるあなたに
十分に伝えられているのかが一番大事なのだ。
一種、悪口というものは多少の誤差があっても受け取る側と
発信側の言ってるニュアンスは共有できるという皮肉なものだ。
マイナスなことはいくらでも焚きつけられるし、煽ったりできる。
悪い意味で大きな反響があった際、「炎上」というが、
これら全てに「火」が入ってる。
それだけ批判の言葉、怒りが入った言葉は、
エネルギーのある言葉であることの裏付けだったりするのか。

Twitterでたまに、フォローしていただくことがある。
しかし勝手ながら、全てにフォロー返ししていない。
もっといえば、フォローしていただいても、ブロックするという
非情なこともしたことがある。

私自身、入学式で知り合った人と卒業式に写真を一緒に取る人は
違うという経験からだ。

自分が好きなラジオは今、盛り上がってるとはいえ、
サブカルチャーには変わりない。
何かの記事で最近のラジオの営業収入は、
1991年のラジオによる営業収入の半分以下というグラフがあった。

自分と同世代の多くは、バンドが好き、芸人が好き、アイドルが好き、
といった入り口で、ラジオを聞いている人が多い。
自分のTwitterを見ていると、そういったことがわかる。
でも、「ラジオリスナー」アカウントがツイートするラジオ関係の割合を
みるとラジオって媒体、ラジオ番組が好きというよりも、
その入口になっているタレントが出ている媒体の一つって形が否めない。

この人がプロフィール欄に書く、「ラジオリスナー」って
そこに書いていない「テレビの視聴者」というのと同等なんだと推測する。
「ラジオリスナー」ってわざわざ書くのは、
先程のラジオの希少性に由来するんだろう。
そういうアカウントをフォローしても、その人の好きなタレントが
出演しているすべての媒体に反応している。
こういうのを、自分と似たスタンスで使っているフォロワーさんと
話したところ、こんなたとえ話をされた。

「誰しも、自身が楽しくなる、興奮する時間はあるべきだけど、だからといって、四六時中リアルタイムでそれを追いかけてるようなやつって、現実だったら、いっつも勃起してるやつと一緒で、そんなやつおかしいじゃん。異常だよ。好きな番組全部チェックしたり、話の本筋じゃないところで出ても、そこだけ盛り上がったり、それは、その界隈の人の中で言えばいいことで、それをTwitterとかで言う人って昼の街ナカで射精しているような感じがするから、なんか気持ち悪いと思って、気にもかけてないよ。ライブとか、試合とかあったときにしっかり反応するほうが、よっぽど、ホテル行って、しっかり盛り上がってますって感じがする。」

この話をされた後、自分なりにこう考えた。
鍵垢って、心理的コンドームだなってこと。
私の性格に基づく問題として、
多くの人が同じことを言ってるときも、気持ち悪さを覚える。
有名人がいつでも、現在の自分のことを発信できて、
それ自体に経済的価値をつけている。楽曲とか作品に価値よりも、
人やブランドに付加価値をつけた商売が流行っている。
だからこそ、その人を見聞きする回数を増やすかって方策が多い。
結果的に、いつも、ほとんど同じ感想を多くの人がツイートするTL。
TLはマクロとして見る形式だから、個人個人が嫌いじゃないのに、
精神衛生的に良くない状況に陥る。

自分が好きなものならば、それに関連するものも
好きになりやすいというものが私にはある。
例として、エンタメなら佐久間さん、
好きな曲ならTakaや細美武士、ゴッチ。
推薦する書籍なら朝井リョウが。
誰にでも似たようなことに当てはまりやすいのではないだろうか。

そして、私にとってそれらはすべて盲信的なものである。
自分のような「信者」はその人の神が何をしようが、
それが正しいとは言わないまでも、良いと認識する。
良くないものと認識することは少ない。
スターって、「AならばB」を、「BならばA」にしても成り立つ人間なのだ。
※「サッカーならば、クリロナ、クリロナならば、サッカー」
Youtube、Twitter、TikTok、にしろ自分のような学生でさえ、
世界中に向けて発信できるようになった。

その側面も孕みながら「いいね」という機能はある程度、
他者と自分の感情の一致を示す指針にはなる。
いいねが来るとすごく嬉しい、その反面怖くなる。
ラジオで初めて投稿が採用されたときには、
あんなに多くのいいねが来ることに少し怯えた。
あれは本当にいいねがもらえるほどの質を担保した投稿だったのかと。
SNSでの自分の発言にしろ、noteのように自分の書いた文章にしろ、
今見返してみれば発言時とは異なるニュアンスに
捉えられた経験はないだろうか。

その都度、分かりやすい、伝わりやすい、
でも、自分なりの表現、言葉選びというのを
自分ができているかが不安になる。
それは、見る人がミクロのTL上でしかないからだ。
自分が嫌悪することを、無意識に自分もしてしまっているのは、
言行不一致で一番恰好悪いし、誰も言うことを聞かなくなるだろう。

自分の面白いという基準は、他の人のそれに
棒にもかからないことのほうが多い。
考えてみたら簡単なことなのだ。
私の価値基準は私が触れてきた経験からできている。
つまり、自分の価値基準は、自分以外によって作られたものである。
そうなれば、自分の判断基準なんて独り善がりの結晶なんだと。
更に踏み込んで言えば、それは誰しも同じことが言えるのだ。
自分自身は間違ってるし、みんなも正しいわけではない
心構えになるだけで、楽になった。自分は間違っているという前提で。

平等とは自由を制限することであるが、
自由には、自由でしか対抗できない。
発信する自由、享受する自由、それをしない自由もある。
でも、この文章をわざわざ見てもらうことには、感謝しかないです。

フォローされたときは、一旦立ち止まって、
その人のツイートを吟味・分析して、自分のTLの状況と鑑みて、
フォロー返すのを、ためらうのは、よくないことでしょうか。

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