運がいい!
先日帰省した娘と二人でドライブをした。
天気は上々で、小さなカフェでコーヒーを飲んだり、水没林をみたりして楽しく過ごした。
そのとき、助手席の娘が言った言葉が胸に残った。
「あたし、運だけはいいの」
聞いたときは、は? と思った。
どこをもってして、運がいいと言い切るのか。わたしには分からなかったからだ。
娘はちょっと特殊な医療関係の専門学校の二年生。一年時末の二月あたりには、大きな試験を前に、親しかった友人が中退を選ぶなど、かなり精神的に追いつめられていた。さすがののんびりやの娘も中退か……と電話越しの涙声に、わたしもかなり胸と頭を痛めた。
それなのに、娘はけろりと「運がいい」と話したのだ。
日頃から、一人っ子の娘には二親の気むずかしさは遺伝せず、いい具合に楽天的だと感じている。
我が家は経済的に特段恵まれているわけでもない。夫はごく普通の勤め人だし、わたしは上がりの少ない自営業と実家の商売の手伝い。夫婦仲もさほどよくない。共通の趣味や話題に乏しく会話も少ない。何かしらの話題で楽しい会話のキャッチボールが続く、なんてことはない。唯一、我が家のよいところといえば、猫を複数飼っているところくらいだと思っている。そんな、わりと平凡な家庭だ。
そんなことを思っていた先日、Twitterで某占い芸人さんがつぶやいておられた。
「運がいい、と口にするだけで運が良くなる。たったそれだけのことなのに、やらない人が多いことが不思議だ。ほんとに運が良くなるのに」
そんなつぶやきだった。
わたしは、去年は車をぶつけたり、転んで顔を怪我したり、スマホにダウンロードしたキンドルデータがすべて消し飛んだりと、不運続きであった。
今は、そういったトラブルがないだけマシな生活。開運したいな。
ふむ、言うだけでいいのか。じゃあ言ってみるか。
「わたしは、運がぃ……」
声は尻すぼみになった。
運がいいと言う前に、でもそんなでもないよなあ、仕事の業績下がりっぱなしだし、実家の手伝いも失敗ばっかりだし、小説書いて公募に出してもぱっとしないし。
そんなことばかりが思い浮かんで口をつぐんでしまった。
たかが、言うだけなのに。
若い頃は、自分は運がいいと思っていたし、実際口にしていた。
希望する職業に就き、対人関係にも恵まれ、大好きな本をたくさん読めて、時々旅行へも出かけられる。
恵まれている、運がいい。
友人たちには、ちょっと鼻につく奴と思われていたかもしれないが、若い頃のわたしは怖いものしらずだった。
あの頃には言えて、今は言えないのはなんでだろう。
娘に「お母さんは、ネガティブに考えすぎ」といつも言われている。
残りの人生は、四人の親を見送って、働けるうちはずっと働き、あとは静かにこちらの世界から去る、というビジョンしか持てないからなんだろう。
寂しく思いつつ、昔のものを整理していたら、はるか二十年ほどまえに使っていたスケジュール帳に、ちょっと汚れたコピー紙が挟まっていた。
以前流行った、「世界がもし100人の村なら」だった。
これをわたしに勧めてくれたのは、当時の担当のKさんだった。
「Cさん、これいいですよ」
くるんとした丸い目と、リスみたいにちょっとはみ出す前歯。薄くなりかけた頭頂部。
Kさんはわたしより七歳くらい年下だった。仕事に対して真摯で素直で一生懸命な人だった。
ちょいひねくれ、天の邪鬼のわたしにいつも熱心に仕事の指導をしてくれた。その彼がすすめてくれた一文を今まで取っていた。
つらつらと読み返す、さして長くはない文章。
縮小された世界。
その最後のパートにはこうつづられている。
お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の楽園であるかのように生きていきましょう。
ああ、そうだな。
とにもかくにも、生きて、自分の足で歩き、目で見、耳で聞き、話し食べ自由に過ごしている。
小説を読むことも書くことも、規制されず、家族がみんな元気で猫もかわいい。
こんな時代でも、仕事がある。雨風しのげる家がある。
泣いても笑っても、人生は一度きりだ。
ああ。
「わたしは、運がいい」
ようやく言えた。
運がいいと決めるのは、天ではなくて自分なのだろう。
娘が何をもってして、「運がいいんだよ」と言ったのか分からない。
気の合う友人に恵まれたことなのか、進学させてもらったことなのか、健康な体を持てたことなのか。
でも「運がいい!」と自ら言える娘を持った母のわたしも、また運がいい。
むこうへ先に旅立ったKさんと話がしたくなった。
百人の村のコピーは今年のスケジュール帳に挟んだ。
これからは、毎日遠慮なく口にしよう。
わたしは運がいい、と。
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