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初めて教会に友達を連れて行った時のお話


「わたしな、クリスチャンやねん。」

クリスチャンになってから、2年が経とうとする中、自分がクリスチャンだと主張することは、正直あまりなくなっていた。

解説:ノンクリスチャンが洗礼を受けると、その瞬間からクリスチャンになります。

今わたしが住んでいるお家(シェアハウス)は、ありがたいことに「クリスチャン」と打ち明けても、そこまで大きく突っ込まれない環境にある。

みんながどんな風に考えてくれているのかはわからなかったけど、否定的な意見を投げてくる人はひとりもいない。

けど。それでも、「今日は教会に行ってくる」「神様がね…」という話をするのは、友達の前ではなんだか言いづらい自分もいて、どちらかというとクリスチャンであることを周りに話すのは気が引けていた。

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「今日は夕拝に行こう。」

いつも日曜礼拝にばかり行くけれど、今日は一週間前から、水曜日の夕拝に行くことを決めていた。

解説:クリスチャンは日曜日の礼拝に行く人がほとんどだけれど、教会は水曜日の夕方に礼拝をしていることがたくさんあって、それを水曜日夕拝といいます

水曜日の礼拝は、個人的にはすごく大事だなと思っている。

1週間、日常の忙しさに負けて神様を忘れてしまうことは多々あるし、特に自分の信仰が立て上げられている最中は、悪霊の攻撃にも遭いやすいからだ。

できれば、なるべく多く、教会に行って礼拝をしたい。
神様の御言葉を浴びまくりたい。

「今日さ、夕拝に行くんやんか⛪」

何気なく、シェアハウスで一緒に暮らす友達に、それを伝えてみた。

「夕拝?」

彼女はノンクリスチャン。妹みたいにかわいがっていて、最近は本当の姉妹みたいやなぁと自分でも思う。幸せになってほしい人のひとりだ。

「うん、夕方に礼拝があるんやけど、今日は行ったこと無い教会にいってみようと思ってて。初めて行く教会はちょっと緊張するんだよね(笑)」

それから、気付けば、自分がどうしてクリスチャンになったのか、ノンクリスチャンのときに初めて教会に行った時、どんな風に思ったのかを彼女に話している自分がいた。

“そういえば最初、教会ってなにしてるところ?って不安で仕方なかったなぁ…” 

“私も最初、クリスチャンって何??って不思議だったな〜”

話しながら、はじめて教会に行ったときのことを思い出していた。

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これは洗礼を受けた時の写真。わたしはノンクリスチャンから教会に1年通って、神様を信じ、クリスチャンになりました。

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「あ、そろそろ夕拝の時間だ⏰」

話し込んでいると、もうすぐ教会に行く時間になった。

「もしよかったら、一緒に教会行ってみる?⛪」

そう、彼女に声をかけてから気づいた。

そういえば、私も始まりはここからだ。

ノンクリスチャンの時、クリスチャンの彼に出会っていなかったら。

彼が日曜日、礼拝に行くと言わなかったら。あの日、一緒に、あの教会の門を開けてくれなかったら。

私はもしかすると、長い人生の中で、教会に行くことはなかったかもしれない。神様に繋がることもなかったかもしれない。

今、こうしてクリスチャンとして、神様の愛を知って生活できているのは、あの時、少しの勇気ときっかけで、私を教会につないでくれた人がいたからだ。

だとしたら、もし、いま。彼女に神様とのきっかけを与えられるのだとしたら。

それは、なんて幸せなことだろう、と思った。

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洗礼を受けてからの私は、正直、伝道活動についてはよくわからなかった。

伝道、と聞くと「押し売り」なイメージが強く、それよりなにより、自分がクリスチャンの頃、「神様を信じて!」といくら人に言われても、自分が納得しなければ前に進めなかったから。

けれども、自分がクリスチャンで、自分だけが幸せな道を歩めればそれでいいか、と言われるとそうではない。私の周りには、幸せになってほしいと願う人達がたくさんいる。

そんな人達が、もしどこかで神様につながって、今いる環境や考え方、生き方みたいなことに少しでも変化がもたらされたなら、私はクリスチャンとして、こんなに幸せなことはないと思う。

そして、もしも願いが叶って。彼らとまた、永遠の命のもとで、御国で出逢うことができるなら。それは、私にとっては何よりも嬉しいグッドニュースだな、と心からそう感じた一日だった。

解説:クリスチャンになると永遠の命が与えられ、死後の世界(天の御国)でまた再会することができます。

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初めての教会での礼拝が終わったあと、彼女に感想を聞いてみた。

「どやった?怖くなかった…?」

今日の説教は、人間の犯した罪について。福音では一番必要な箇所だけれど、神様を知らない人にとって、“自分が罪人である”と認識するのには、いくばくの葛藤もあるだろう。(私がそうだった)

「え、なんか。楽しかった。もっと神様について知りたいと思ったよ〜。」

いつもの朗らかで可愛らしい笑顔で、彼女がそう言ってくれた時、本当に嬉しかった。

私が一番大好きな人(神様)を、大好きだなと思う人(友達)に伝えられたこと。それを、否定せずに受け入れてくれたこと。説教を「楽しかった」と言ってくれたこと。神様のことを、もっと知りたいと思ってくれたこと。

全部が嬉しくて嬉しくて、こんなにうれしいことってあるんだろうかと思った。

願わくば、彼女がこの先の人生で、もっと神様との距離が近くなるといいな。神様、頼みます🙏

クリスチャンでも、好きな人達に自分のことを否定されるのは怖いし、それなりに傷つく。ゆえに、伝道活動は、やっぱり勇気のいることなんだと思う。

でも、私自身が、変えられたように。ノンクリスチャンが神様を知るための最初のきっかけに用いられるのは、やっぱりクリスチャンじゃないのかなと思う。

そして、その人が神様とどう繋がるのかはその人次第でも、ノンクリスチャンが神様を知る“きっかけ”を与えていくことは、わたしたちにできるんだと、そう思った。

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彼女が優しく笑ってくれるから、私はこれから先も、大好きな神様をこうして伝えていきたいなと思えた。

もしひとりで教会に行くのが怖いな、と思う人が居たら。寄り添って一緒に教会を探せる人間になりたい。神様、どうか用いてくださいね🙏

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洗礼を受けてから、今年で3年。

“ほんまに神様なんかおるんか?”と思ってから、人は1年でも変えられる。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名なによって、彼らにバプテスマを施こし、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである(マタイによる福音書28:19-20)
新約聖書

主にありて、隣人に伝道できる私でありますように。

大好きな人と教会に行けて、本当に嬉しかった。そんな日の、日記。

あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。