一瞬の出会い、一生の教え。その目は何を見ていたのだろうか。
バスの車内でマイクを通した運転手の声が聞こえる。
「270円ないですか?」
私は、バスの後方座席に座りながらスマホを触っていたが、無意識に財布に手を伸ばした。
おばあちゃんがバスを降りようとしていた。
「次は気を付けてくださいね~」とだけ運転手は言い、おばあちゃんはバスを降りていく。
おばあちゃんの手には1万円札が握られていた。バスは、1万円の両替ができないのだ。
バスは、再び動き出す。
私はあのときの恩返しをしようと思ったのかもしれない。
流れる景色を見ながら、昔の光景を思い出した。
-----
まだ私が大学生だったころ、同じことがあった。バスを降りようとして、1万円札しかないことに気が付く。
「あの、すみません。1万円を両替できますか?」
すぐに運転手の目の色が変わり、彼は高圧的な態度を取った。
「できるわけないだろ!わかってやってるよな!?ああ?」
激高して、今にでも殴り掛かってきそうな勢いだった。
私は委縮し、車内には不穏な空気が流れる。
「すみません。うっかりしていました・・・。」
私は今にも泣きだしそうな様子だったように思う。
困った様子を見かねて、運転手が車内アナウンスを出す。「えー、お客様の中で1万円を千円札に両替できる方はいますか?」
車内はお通夜みたいな様子だったが、しばらくの沈黙のあと1人の乗客が動き出した。
年を重ねた和服を着た女性だ。歌舞伎とか能とかそういう業界にいそうな雰囲気だった。
布で丁寧にくるまれた封筒から1000円札を10枚取り出し、私の1万円と交換してくれた。
「すみません。ありがとうございます」と、私は力なく言うだけだった。
-----
その時は運転手にどやされたショックで深く考えることができなかったが、後でいろいろと考えさせる出来事だった。
和服の女性が持っていたあの千円札10枚は、たまたま持っていたものではない。
何かのために用意していた千円札だ。きっと、私と交換したその日にまた銀行に行ってわざわざ1万円札を千円札10枚と交換したに違いない。
そして
激高した運転手がいきなりケンカ腰で怒鳴ってきた理由もだいたいわかる。
もちろん、直前に何か嫌なことがあったのかもしれない。もしかすると前にも大学生に同じようなことで悩まされたのかもしれない。その可能性は排除できないが、ひとつ思い当たることがある。
私の見た目だ。
金髪に近い茶髪で、服装は大学生の夏らしい格好をしていた。
バスの運転手は人を見た目で判断をしていたのだ。
そして、和服の女性は人を見た目で判断をせずに、純粋に困った人がいれば手を差し出す人だった。
そういうことだと理解した。
この出来事は私に直接的に与えた影響はなかったと思うが、思えばきっかけだったのかもしれない。
私は見た目ではなくて中身で判断をしたい。
スーツを着こなしてでたらめ言っている人とボロボロの服を着ていながらも正しいことを言っている人がいた場合、私なら後者をしっかりと見極める目をもちたい。
自分もそう。見た目でごまかすのではなくて、しっかりと中身で勝負する。
そんな生き方をしたいと思っているのは、この経験が少しは影響しているのかもしれない。
あの時の恩は、誰かに何かの形で返したいと思う。