父の日に思う、父の思い出
最後に父と父の日を過ごしたのは2年前。ちょうど同じ時期に誕生日だということもあり、その直前に旅した出雲で買った日本酒とそばで夕食をとりました。
腎臓を患っていた父は食事制限を受けていたものの、それでも2019年のはじめに余命宣告を受けてからは、主治医もあまり厳しいことは言わなくなっており、まぁ誕生日くらいは、ということで天ぷらを添えていただきました。
父とは基本的に不仲で、ちょっとしたことで言い合いになり、常に緊張感のある関係でしたが、この日ばかりは当たり障りのない会話で和やかなひとときを過ごし、食事の最後には「美味しかった。ありがとう」と言って席を立ったことが印象的でした。
大人になってからの父との思い出は苦いことばかりでしたが、この思い出と、死ぬ直前に手を握って「ありがとう」と言ってもらったこと。この二つを経験するために私はこの人の子供として生まれてきたのかなと今では思えます。
仲良くすればよかったとか、もっと生きていて欲しかったとは申し訳ないほど思わないのですが(てか、89だし!笑)、それはお互いの「そういう役割」を演じ切ったからなのかもしれません。
というのは、40代の約10年間、私は親から狂人扱いされながらもスピリチュアル修行に没頭したわけですが、そこで学んだのは「人は愛を経験するために生きている」ということ。
いろんな形がある愛のなかでもとりわけ難しく、尊いのは「無条件の愛」と言われていますが、もともとは宇宙の原理として機能しているのだそうです。
なかなか実感できない境地ではありますが、父とのこの瞬間を思い出すたびに涙が出そうになるのは、「きっとそういうことなのだろう」と理解しています。
常識的な人からは、そんな小難しく考えなくても、普段から常に感謝の心を持っていればいいではないかと言われそうですが、そこはまぁ「悪人正機」ってやつですね(笑)。
虐待を受けたわけではないけれど、家族と良い関係が築けない、親に心を開けない、という苦しさを抱えている人がいたら、こういうこともあるよ、と伝えたくて書いてみました。
親しい間柄、似通った者同士で日常的に交わされる情愛よりも
敵対する者、正反対にいる者の間に通じた一瞬の共感は
より真実の愛に近い、ということもあるかもしれません。