新羅史にみる新羅・倭交渉史(2)

665.新羅史にみる新羅・倭交渉史(2)

(4)1世紀に倭国と国交を結ぶと共に、百済との勢力争いが強まり、倭国系の王族貴族のウェートが落ち、金氏が新羅王位継承者として登場する。

⇒少し丁寧に転記する。
59年 倭国と国交を結び互いに使者を交換した。
61年 馬韓(百済)将軍孟召が覆厳城(不明)と共に新羅に降る。
63年 百済王が領土を娘子谷城(忠北清洲市)まで拡大、百済王が面会を求めるが新羅王応ぜず。
64年 百済が蛙山城(忠北報恩郡)を攻める。同じく狗壌城(忠北沃川郡内)を攻めるも新羅は防衛に成功。
65年 瓢公が閼智(あつち)を見出し金氏と名づける、後の新羅金王家の始祖。
⇒このころ新羅王権が弱体化したものとみる。

66年 瓢公と昔氏王(四代脱解尼師今)国家を二分して分治する。

⇒瓢公も昔氏も倭系。そして後の新羅王家金氏もここで登場するのである。王都が慶州であることもあわせ、この辺までは倭(今の日本人と一緒でないにせよ)の国であっと見てよい。

73年 倭人が木出島(慶南蔚山目島か)を侵したので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。

⇒この前後も百済(馬韓勢)との戦いも続いている


(5)倭系瓢公との分治等を通じこの辺りで新羅は金氏新羅国(北寄り)と倭系伽耶国(南寄り)に分かれる。西に百済系、伽耶とはべつに海の向こうには倭国が存在する基本構造が出来ていく。


80年 五代婆娑(はさ)尼師今が即位。四代脱解尼師今に嫡子はいたが彼ではなくどうやら金氏系らしい婆娑が継承する。

87年 国力が衰え、西に百済、南に伽耶に接しているので専守防衛策とし、加召(慶南居昌郡金貴山城)・馬頭(慶南居昌郡馬利面か)二城を築く。

94年 伽耶軍が馬頭城包囲、新羅は撃退
97年 伽耶軍が南辺を侵す、新羅は撃退

102年 音汁伐国(慶北月城郡見谷面)・悉直谷国(江原道三陟郡)・押督国(慶北慶山郡)を新羅勢力下とする。

108年 比只国(慶南昌寧郡)・多伐国(慶南大邱市)・草八国(慶南三峡郡)を併合

115年~116年 伽耶軍南辺を侵す、戦争

121年~122年 倭人東部辺境を侵す、戦争
123年 倭国と講和。
⇒⇒このころ、不満を持った倭系が伽耶に移ったり、海を越えて九州に亘ったりしたことは充分考えられる。

(6)2世紀に入ると靺鞨(高句麗系?)や百済との緊張が高まり、倭との親交を深める。王家も倭系昔氏に戻る。


125年 靺鞨(高句麗系?高句麗以外のツングース系?)大挙して北部を侵す。新羅要請に応じ百済軍の救済を得て安堵。

137~142年 靺鞨軍との対応に終始する。
142年 靺鞨討伐検討するも見送る。

158年 倭人が交際のために訪れた。

165~167年 百済との間で緊張高まる。

173年 倭女王卑弥呼の使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)*

184年 新羅は昔氏伐休尼師(脱解の孫)を王とする。

188~190年 百済との間で緊張・戦争

193年 倭人1000余人、大飢饉の為食糧を求めて新羅に来訪。

196年 昔氏伐休の孫、奈解尼師今が十代新羅王につく。王妃も昔氏系。
⇒昔氏は倭系・・
⇒⇒邪馬台国の時代には、新羅も倭系政権に戻るのかもしれない。新羅・伽耶・邪馬台国同盟が二世紀後半から三世紀前半は続くように見える。

⇒⇒逆に、非倭系の新羅王族貴族は、伽耶・邪馬台国とは別の日本各地に移動することも十分ありうる。倭国大乱?、たとえば秦系の一部が北九州は避けて豊国に移住するのもこのころかもしれない。

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*「三国史記」訳注(井上秀雄さん)は、魏志倭人伝の238(9)年の卑弥呼帯方郡への遣使の記事を引き「これより65年前のことだから、魏志より「造作したものであろう。その際、干支一運を遡らせたのではなかろうか」と。⇒あるいは、この辺すべての新羅史記記事は古く見せるため、干支一巡繰り上げた見るべきかもしれない。(なお⇒はすべてrac補注・コメント)

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(7)(奴国・伊都国・邪馬台国=)倭国とは345年頃まで、基本的には、新羅・伽耶・倭の同盟が続いていたと見る。新羅国王はいつも親倭系であったとは限らないが、貴族層を含め親倭勢力は常にあり、相当強硬な手段をとっても、新羅・伽耶・倭の同盟を維持していたと考える。


⇒⇒220年後漢が滅亡する。朝鮮半島北部はこの前後から、公孫氏(238年に司馬いによって滅亡)・高句麗勢力・楽浪帯方郡の貴族たちの草刈場と化す。魏・西晋・前秦が安定した頃には一時小康を保つが、313年頃には楽浪・帯方郡もついに滅亡。350年頃には高句麗が前秦に圧され一時弱体化、帯方郡から伯済国(百済国)が国として自立を強め、新羅も漸く国としての体裁を整える。新羅は北西方の混乱に具えるためにも、南方の伽耶・倭勢力とは、歴史的民族的文化的近さもあって協力関係を維持するのだと思う。

⇒⇒ここでいう倭とは、奴国伊都国邪馬台国の流れの北九州勢力と見る。

⇒⇒同時に、不満のある新羅や伽耶の王族貴族、また時に百済系や高句麗系の王族貴族・避難民が北九州以外の日本各地に移動することも頻繁にあったと見る。伽耶や北九州の倭の伝統勢力は自領を死守し、新しい移民者には積極的に出雲・瀬戸内海・近畿・南九州を目指すことを勧めた、とさえ考える。


199年 百済、新羅の国境を侵す

201年 伽耶国と講和

203年 靺鞨、新羅の国境を侵す

208年 倭人、国境を侵す

209年 浦上(ほじょう)8国連合して、加羅を侵略。加羅王子の要請により新羅は救援し成功する。(訳注には、浦上8国は慶南固城郡や同泗川郡あたりと。加羅は伽耶と同一:加羅は国際用語、伽耶は国内用語とする)

212年 伽耶は王子を人質として新羅に送る。

218年~224年 百済との戦争

230年 11代助賁尼師今が即位。昔氏、伐休の孫とするが母は金氏、王妃は前王奈解の娘。
⇒昔氏・倭系?ではなかったのかもしれない・・

232年 倭人が突然侵入、金城を包囲。防衛に成功。
233年 倭軍が東辺を侵す。倭人と沙道で戦争、倭は舟を失い溺れる。

240年 百済が西辺を侵す

245年 高句麗が北部を侵すが、防げず。

247年 12代沽解(てんかい)尼師今即位、前王助賁の同母弟。

249年 倭人が舒弗邯の于老を殺した。(⇒新羅の最高指導者を殺している)

255年 百済侵入
261年 百済の講和提案を受けず。

262年 13代味鄒尼師今即位。金氏。母は朴氏で王妃は昔氏。

266年、272年、278年、283年 百済侵入

284年 14代儒礼尼師今が即位。助賁の長男、母は昔氏。

287年 倭人が一礼部(不明)を襲う。
289年 倭兵が攻めてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。
292年 倭兵が沙道城を攻めるが防衛。
294年 倭兵が長峯城を攻めて来たが防衛できなかった。

295年 王が「百済と共に謀って、一時海を渡って行って、倭を討ちたい」と諮るが、舒弗邯の弘権は「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王は「よくわかった」と見送った。

297年 伊西国(慶北清道郡)が侵攻してきて金城を攻めるが、竹葉を耳飾にした軍勢が現れて(何者か最後までわからない)新羅軍と共同して、これを打ち破った。

298年 15代基臨尼師今が即位。助賁の孫。姓・母・后の記録なし。

300年 倭国と国使を交換。

300年 楽浪・帯方二郡が服属してきた。
307年 国号を新羅に戻す。

310年 16代訖解(きつかい)尼師今が即位。奈解王の孫。母は助賁王の娘。于老舒弗邯の子というので男系は切れている。

312年 倭国王が使臣をつかわして、王子のために花嫁を求めてきたので、阿食(+サンズイ、ニスイ)の急利の娘を倭国に送った。
314年 阿食の急利を伊食(+サンズイ、ニスイ)にする。

337年 使者を百済に派遣。

344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに娘は嫁がせたとして辞退した。

345年 倭王が、書を送って国交を断ってきた。 


⇒以上読み方の難しいところだが、新羅王の血統はいろいろあっても、百済と倭(伽耶+北九州)の間で揺れ動いている。百済より倭の方が新羅王宮内にも勢力があり気に入らない新羅王が出現すると脅し賺しその他政治力を駆使して同盟関係維持に努めているようにみえる。

⇒310年訖解王のとき、倭国王と血縁関係が切れたか異なったかする(倭国側で血縁が違ってきた可能性もある)。婚姻関係を求めるが新羅側が断る、で新羅・倭間の国交断絶となる。それまでの数百年とは違う相当重大な何かがここにあったと想像する。日本側で北九州から近畿へ政治中核勢力が移ったことの反映かもしれない。

(続く)

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