倭と日本

旧唐書東夷伝は倭と日本が別別に国として書かれていることでも有名だ。北九州に別王朝があった証拠だという向きもあるが違うだろう。白村江敗戦から壬申の乱に至る時期、天智と鎌足(実は扶余豊章)の失政を内外にゴマカスため、記紀改作他多くの韜晦が必要となり、それ故にこの時期中国側の記録に倭と日本は別とか日本人は高慢で不誠実とか書かれることになっただけとみる。

旧唐書東夷伝より抜粋引用、新唐書にも臭いは残るが、旧唐書が典型・・

【倭国】倭國は古の倭奴國(倭のナの国かイト国か)だ。長安から一萬四千里(約7000km、実際は直線で2000km)新羅の東南大海中にある。山島からなりその国土は東西五月行,南北三月行の大きさ。世々中國と通交ある。・・・貞觀五年(631年)遣使し方物を献じた。太宗はその道の遠いを矜れみ毎年の朝貢は不要と勅した。太宗は新州刺史高表仁を倭に遣ったが、表仁は「綏遠の才」なく倭の王子と禮を争い朝命を宣べずに帰国した。貞観二十二年(648年)になって新羅奉表についてきて様子を伝えてきた(648年遣唐使は紀にない)。

【日本国】日本國は倭國の別種でその国は日の邊りにあるので日本と名乗った、或は倭國がその名を雅でないと悪んで日本と改めた、或は日本はもと小國だったが旧倭國の地を併せた、ともいう。日本人で唐に来る者は多く自矜心強く実がないので中國では(日本人の言うことは)疑しいとみている。また云うに日本は東西南北各數千里で西界南界は皆大海に至り,東界北界には大山を限りとし山外は毛人の國、と。長安三年(703年)日本の大臣朝臣(粟田)真人來り方物を貢した。朝臣真人とは中國の戶部尚書にあたり進德冠を冠しその頂は花状に分れ四方に下げ身には紫袍を白絹の腰帶をまとった。真人は經史書を好み内容をよく理解し容姿は溫雅だった。則天武后は麟德殿で宴し司膳卿を授け日本国に帰国させた。玄宗開元初(718年)遣使來朝し儒士に經を授けてほしいとの要請があり、四門助教の趙玄默に詔し鴻臚寺で教授した。その際玄默に教授料として幅布を残していったが「白龜元年調布」*とあり人は偽物と疑った。日本の使者は唐でもらった財貨をすべて文籍に替えて海路帰っていった。云々。

この時期の対倭対日本感の最大特徴は、日本人のいうことがどうも大げさで疑わしい、の一点。そもそも(遣唐使等に聞いても)倭と日本の関係がよくわからない、国土が中国と同じほどに大きいという、はては「白亀元年調布」という布地を納めていったが嘘っぽいまで。倭は伝統的に優秀人材を送りまじめに勉強し金品すべて書籍に替えて帰国していく、第8回粟田真人以降身分高い人をヘッドに大型使節を送っているのに「嘘つき」に見えたというのはこの時期のみの記録と言っていい。ここはひとえに、白村江から壬申の乱まで天智と鎌足(=扶余豊章)の不始末(=テコ入れすべきでなかった百済を助け大唐に敵対し白村江敗戦を誇大宣伝し百済戦争責任者豊章らを財産と共に倭に逃亡亡命させその後日本と国号まで改め外交資料基礎たる日本書まで改作した)を唐側に知られたくなかったことが主因、事情をすべて知っていたはずの粟田真人あたりも結局本当のことは話せずに帰ってきた、だから↑のように疑わしい連中と記録されたとみる。端的に言えば、唐側の共犯者事情通ともいうべき劉仁軌(602-685年)が死んで本格的に(本当の)遣唐使派遣を再開し栗田真人(630年頃ー719年)世代が死んで改作日本書紀を公開した。

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*白雉・霊亀という元号は日本にあるが白亀は日本にも中国にもない、ただし「霊亀715-717年の当初白亀と号した可能性」はあり、時期も一致する。



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