仁徳~雄略の外交史
仁徳紀の外交関連記事は、前半120年繰り下げ、後半60年繰り下げると史実に近づく。雄略年譜は多少出入りはあるが概そそのままでいい。履中から安康は外交記事もほとんどなく干支等を参考に適宜に嵌めていったと読む。
425年(仁徳53年)新羅朝貢せず、上毛野君の祖田道を派軍して新羅を討つ。⇒訥祇王のもとで暫く関係回復したが、倭の圧力強く、新羅本紀は424年に高句麗と国交回復と。この後倭は新羅とは緊張状態に入る。
430年(仁58)呉(宋)に高(句)麗とともに朝貢する。⇒紀「呉国高麗国並朝貢」を伝統的には「呉と高麗が朝貢してきた」と読むらしいが違うだろう、これが宋書・南史の430年朝貢記事に当たるか?
444年(仁11)この年、新羅人朝貢、土木に使う⇒三国史記新羅本紀によれば、倭と大きな戦争があり「倭兵、金城を10日包囲」で撃退したが数百の死者と人民拉致があったらしい。紀と記事は見合っている。
445年(仁12) 高麗の客が鉄楯と鉄的(というが鉄鎧の新製品か)を持ち込む。試射するが皆射抜けず、射貫いた武人が的(いくは)臣名をもらった⇒このころ高句麗と往来あるが正式な使節でなく、相互に偵察示威しているようだ。
449年(仁17)新羅朝貢せず、的臣らを派遣譴責、絹1460匹他船80艘分を新羅人が送ってきた。⇒新羅本紀には記事なし、略奪してきたのか?神功紀の新羅80隻朝貢はこの時の記録を過去にも投影したと読む。またこの頃には高句麗も新羅攻めを再開、新羅は百済と同盟連携を探る。
458年(雄略2年)百済蓋鹵王(加須利の君)貢上の池津媛、密通したので殺す。461年(雄5)蓋鹵王、女はダメと弟の昆支を人質に貢上、5人の子連れまた途上女が子を産むがこれは蓋鹵王の子(嶋君、斯麻)でのちの武寧王という伝承を紀は伝える。⇒長く疑問視されていたが、1971年故熊津で武寧王墓誌が発見され、紀の記述は嘘でもないとみなされるようになった。
462年(雄6) 呉国から遣使、⇒462年宋が倭世子興(安康ないし木梨軽皇子)叙任記事に相当(世子として安東将軍に、451年に済=允恭に与えられた六国諸軍事・安東大将軍・倭国王は済が生きていて維持と宋は了解*、だから世子に意味がある)。実際は462年時点では済も興も死んでしまっているから、雄略はこのすべてを継承したつもりでいる。だから「原」雄略紀に残したが、記紀編纂時には縫女工の話に矮小化し紀に転記した。
463年(雄7)妻稚媛を得るため夫吉備田狭を任那に派遣、田狭は新羅と組んで謀叛、雄略は吉備一門を誅殺。⇒新羅本紀に459,462,463年倭との大きな戦争を記録している、紀は女をめぐる話に矮小化しているが、実は吉備一門の勢力を削ぐための雄略謀略とみる。新羅は服属。
464年(雄8)新羅、高麗に攻められ任那に救援を求む、高麗を破り新羅忠誠を誓う。465(雄9)紀・蘇我・大伴氏らを新羅に派遣、将軍も戦死する大戦。⇒468年高句麗が靺鞨1万を率いて新羅を侵す(新、高)。この戦争は長期にわたり、475年百済の滅亡まで続く(新、百)。
473年(仁41)紀(角?)氏を百済に派遣、国郡の境や産物を記録させる。⇒いつでもよさそうな記事なので120年仁徳時代に繰り上げただけ。史実は高句麗南下で新羅任那との境も併せ本格調査したとみるとこの時代がふさわしい。
475年高句麗長寿王の軍3万が漢城を攻め百済蓋婁王戦死、百済滅亡。紀は476年(雄20)冬に高麗大軍発して百済を滅す、とするが、中朝は475年とする。⇒百済新羅倭のギクシャクを見て、468年頃から長寿王は新羅百済攻めを再開、任那や倭の将軍たちも参戦したとみてよく、紀が雄略9年に記す将軍たちの派遣はずっと続いていた(紀氏は親が死んで子が参戦したともいうから長期戦だったと紀も認めている)と読む。
477年(雄21)天皇(雄略)、久麻那利(=熊津、現忠清南道公州市)を汶洲王(文周王)に与え、百済を復興。但し汶洲王は蓋鹵王の母の弟というのが紀(中朝は 蓋鹵王の子とする)、また紀は熊津を与えたのは末多王(牟大、東城王)の時とも伝える。479(雄23)百済文斤王(=三斤王?、文周王すぐに解仇に暗殺され文周の13歳の子が即位、解仇さらに反乱するが失敗、三斤も479年に若死した、というのが三国史記)が死んだので、雄略は昆支の五子のうち第2の末多(東城王)が聡明なので百済王に任命し筑紫の将兵500をつけて熊津に送った。この年百済の調賦は多かった。また筑紫の安到臣・馬飼臣ら水軍を率いて高麗を撃った。⇒475年の百済滅亡で史伝が混乱、いずれにせよ、479年には雄略が蓋婁王の次子の昆支の次子を百済東城王として日本から送り込んだ、が、紀の主張。
こうなると、雄略の時代、わざわざ百済も加えて七国諸軍事を宋に認めさせようとしたのも良く分かる。部下を信用しなかった雄略がわずかにお気に入りの身狭村主青・檜隈民使博徳を2度にわたり呉国に派遣と紀は記すが年次は実際より10年前後繰り上げて(記紀編纂時亡国百済出の史官たちが屈折し韜晦的に)記録したまで。史実は以下と読む。
476年百済を含め「七」国諸軍事・安東「大」将軍・倭国王の叙任を宋に要求。477年身狭村主青・檜隈民使博徳を遣使したが認められず、478年重ねて二人を遣使、名文ともいう有名な上表文も持たせアピールしたが、478年百済については認められないまま451年同様に「六」国諸軍事・安東「大」将軍・倭国王まで。紀は雄略6年派遣8年帰国、12年再派遣14年帰国と書くが、雄略はイラチであり実際は上記通りせわしないものだったと読む。雄略紀で年号大ウソはここくらいであとはほぼ史実とみていい。
*なおいくつか後の「倭の5王を策定する」ご参照。