仲哀紀2)

紀より仲哀紀続けます。仲哀が神託を疑い不審死する有名なお話です。

8)岡、伊都、ナの国々が服従した仲哀8年、同年の9月、熊襲征伐を群臣と協議中、神功皇后が神がかりして「熊襲なんか何もない国、征伐する価値はない。それより金銀財宝あふれる新羅国がある。天皇の船と水田を幣とし自分を祭れば、流血なく新羅は服従する。」天皇は丘に登って海を見たが「大海広く遠く国は見えない」と、(神功=神)「国がないなどと誹謗するなら、国は得られない。ただ今皇后は妊娠しているので子(応神)は得ることができよう」と。天皇は神託を信じず熊襲討伐に行ったが成果なく帰ってきた。

9)翌9年2月突然「痛身」して翌日福岡香椎宮で崩御。一云う、神罰。一云う、天皇前線に出て熊襲の矢に当たって崩じた、と割注。

10)皇后と武内宿祢は中臣・大三輪・物部・大伴を巻き込み共に、天皇の死が天下に伝わると「懈怠」あるので喪を隠し、厳戒を強めた。遺体は武内が豊浦宮(下関)に運んで密葬した。この年に新羅戦役で葬式はできなかった。

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この場面は、記がひときわ神秘的、有名なので以下参考まで、記より。

8’)熊襲を撃とうと神託を得るべく、仲哀は琴を引き、建内(武内)宿祢は(審判の)庭に控え、神が神功に依って「西に金銀財宝の国がある。自分が帰属させよう」と。仲哀「高い丘に登っても国は見えず大海原ばかり」と詐りの神とみなし琴を退け黙った。すると神は大いに忿って「この天下は汝が統べる国でない、一道に向かえ(=死んでしまえ)」と。武内大いに畏まり「天皇よ、お琴をお引きください」と。仲哀はそろそろと琴を寄せイイカゲンに引いた。が、さして時も経たぬうちに琴の音は聞こえなくなった。武内、灯を掲げてみると天皇は崩じていた。

10’)大いに驚いて、殯の宮に安置し、さらに国の大幣をとって種々の罪を祓って、武内は再び神託を(神功に)請うた。

11')(神功)「汝、神功の腹の子こそがこの国を治めるべき」と。武内「お腹の子は何の子か」。「男子ぞ」。「神の名を知りたい」。「天照の心、(住之江の三神=)底筒男・中筒男・下筒男(原注この時初めて登場の神々と)、新羅国が欲しいなら、神祇・山川海の諸々の神々に幣帛を奉じ住之江三神の御魂を船に載せ、真木の灰を瓢に入れ、箸とひらで(柏葉の器)をたくさん作り、海に散じ浮かせて、海を渡れ」と。

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記紀を比べると、神託時は密室で仲哀・神功・武内の3人しかいなかった、仲哀死んだのは神託を受け信じなかった直後、など、いかにも神の御業でなければ、神功武内犯人説、が記。神功の神託は群臣会議中のこと、仲哀が死んだのは神託の5か月後で熊襲の矢で死んだ可能性も残る、さらに新羅攻めやカゴサカオシクマ戦まで見込んでの全体の証人(事後共犯?)として物部大友氏らを用意し、(海外の読者も想定し少しでも)もっともらしく言い訳めいているのが紀。神功のお腹に子がいることを告げられた後に仲哀は死んだというのが紀、仲哀が死んだときお腹の子のことは仲哀は知らなかったはずというのが記、の立場。これも大きい違いだ。

たしかにこの部分だけなら、記の記述を(本居以下皆さん同様)優先したくなり、絵本なども記による神秘の話が描かれる。

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