劉仁軌の手品、新羅統一
663年白村江大勝の見返りに倭と百済遺民に安息を与えたのに似て、劉仁軌は675年自ら新羅七重城大勝後に今度は新羅統一の道を開いてやる。こちらの手品もスザマシク、劉仁軌大勝後は不思議なことに誰が征っても新羅に大敗、だが結局新羅王が謝罪使を送ってすべて許され、676年には唐は熊津都督府・安東都護府を遼東に引揚げ新羅の半島統一がなる、というもの。吐蕃反乱し唐軍主力がそちらに転じたからとの説もあるが吐蕃入寇は厳密には677年以降のことで、劉仁軌の長安中央での政治工作が大きかったようだ。以下解説。
663年白村江周留城の勝利で唐新羅連合は百済の地を得る。他方666年高句麗淵蓋蘇文の死後、三人の遺児が仲たがい、これにつけこむ形で、唐は老将李勣を新羅も老将金庾信を派遣し668年ついに平壌を落とす。隋以来70年に及ぶ高句麗の隋唐帝国抵抗はここに止む。唐は熊津都督府と鶏林都督府についで平壌には安東都護府を設置、半島の唐領土化を強めるが、力をつけた新羅は不満、670年頃から高句麗遺民を支援する形で新羅文武王は唐支配に抵抗、旧百済82城も落とし唐軍を駆逐する。
新羅反乱に怒った唐高宗は674年2月劉仁軌を鶏林道総管とし派軍(副総管に李勤行)、文武王の官職を剥ぎ、代わり文武王弟で唐侍衛の金仁問派遣を決定。翌675年2月劉仁軌唐軍は新羅王都金城北の「七重城の戦い」で大勝したあと引揚げ帰国。唐高宗は李勤行を安東鎮撫大使とし新羅支配を強めようとしたが、新羅文武王は謝罪し貢物*したため、高宗はこれを許し新羅王の官職もそのままとし赴任途上だった金仁問も長安に帰った。しかし新羅は百済高句麗の故地を維持したままだったので、唐軍は薛仁貴・李勤行や靺鞨に新羅を攻めさせるがいずれも新羅軍が圧勝(675年9月から676年冬)。結局676年唐は熊津都督府と安東都護府を遼東に撤退させ、ここに唐新羅戦争は止み、事実上新羅半島統一がなる。が新羅は戦中も戦後も唐の元号を使い朝貢冊封体制下にとどまったことは要注目。
以上やや話がギクシャクするが、劉仁軌の登場で外交的には唐の顔もたち新羅は実を取った観がある。「七重城戦大勝」は(白村江海戦大勝に似て)旧唐書劉仁軌列伝が大元で三国史記新羅本紀文武王15年条にもあるが甚だ具体性を欠く。当時敵味方に新羅王兄弟がおり**ツーカー、で新羅王都近くまで攻め入り大勝したことにして、高宗の怒りや領土的野心をなだめ、自らは爵位を進め公(トップ官人)となり、新羅政策は戦争回避や羈縻政策へ転換させようとしたと読む。
新羅本紀(これを受けて現代でも朝鮮史学会)は文武王15年675年秋の泉城で唐薛仁貴軍に大勝(斬首1400兵船40隻軍馬1000を獲得)、買肖城で李勤行軍に大勝(戦馬3万余獲得)、靺鞨契丹唐連合軍を阿達城や七重城に破った(斬首6千余)、翌676年秋薛仁貴の唐水軍に勝利(伎伐浦海戦、斬首4千余)と書き、新羅統一は戦争で勝ち取ったことを強調するが、実際は劉仁軌の高宗周辺での政治工作と相俟って成ったものと読む。
軍司令官としての劉仁軌への唐高宗の信頼は極めて厚く、677年吐蕃で反乱がおきるや仁軌を洮河道行軍鎮守に任じ派軍、例によって舌触りの良い報告が重なると、仁軌の政敵李敬玄は(恐らくウソを見抜いていて)尽く反対、ついに678年高宗御前でそうまでいうならと軍司令官を交代、しかしその後李敬玄は大敗、軍の過半を失った、という。旧唐書以下史官は仁軌が私怨で将才ないと知ったうえで敬玄を将軍にし敗戦に追いやったのは「国の恥で忠恕の道に反する」(「劉公逞其私忿,陷人之所不能,覆徒貽國之恥,忠恕之道,豈其然乎?」旧唐書劉仁軌列伝)と評するが、真実は上記通りと想像。春秋筆法的史家の言はそれとして、
劉仁軌の「真価」は、戦争の無駄を憎み、唐領土化ではなく羈縻政策(冊封・文化優先で自治自主尊重)が合理的、そのため政権中央にあって高宗武后に忖度し(うその戦勝報告***してでも出世し)権限維持に努め、難しい時代を生き延びた。蛮族を蔑視せず彼我苦しむ戦争を慎み領土化を否定する点は確信犯、むしろ超現代的=習近平見習え、といいたいところだ。
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*新羅文武紀12年条(672年)の上表文と貢物が相当するとみる。「首を垂れ死罪の勅命を待つ」と上表し貢物として銀3万3千余分・銅3万3千分・金120分他広幅布・牛黄・針など。分=1/4両=約10gなら金1.2㎏・銀335kg・銅330㎏。三品劉仁軌が674年鶏林道総管に任命されたあと自分の手柄として高宗に報告したと読む。
**「白村江海戦時」には扶余「隆」は劉仁軌とともに川を下り周留包囲軍に合流、扶余「豊章」は周留城から倭の水軍に合流。戦後、隆は熊津都督に、だが新羅攻勢後には唐に引揚げ洛陽で没(615-682年)。豊章は紀旧唐書三国史記ともに高句麗に逃亡というが、実は藤原鎌足とみるのが弊説。「七重城戦時」では官職を剥がれた文武王法敏が新羅王都金城に、その弟金仁問が高宗侍衛で文武王に代わる鶏林都督に任命された。文武王謝罪で、赴任途中だったが長安に引揚げ長安に死す(629-694年)、死後は新羅に帰り被埋葬。651年より7度通算22年間在唐。在唐外交団のトップで劉仁軌ともツーカーだったとみていい。
***「白村江海戦」では本来孫仁師が7千人170隻の水軍を率いて大勝したものを、孫仁師は新羅王と陸軍行軍中で間に合わなかったと印象付けしまた仁師は蛮族を獣扱いし信じなかったと(批判)し、その手柄を奪い歴史から抹殺した。金城北の「七重城戦」も旧唐書劉仁軌列伝が大元で三国史記新羅文武紀15年条(675年2月)にも同様あるが同列伝の写しで不自然、むしろ15年条末尾にある唐靺鞨契丹軍が「七重城」を攻撃したが勝てず結局のところ新羅軍は唐軍と18戦して皆勝ち斬首6千余戦馬2百を得たとあるのが新羅側本来の伝承。2月の「仁軌七重城大勝」は旧唐書を受け新唐書も資治通鑑も歴史転換点重要事項として麗々しく記すが、実は仁軌と口裏わせ=当時の両者合意のでっち上げの可能性が強いのである。