隋書東夷伝

この時代(隋高句麗戦争や推古馬子聖徳太子の時代)になっても、「三国史記」は倭の関与を無視、「紀」は百済新羅を属国扱いしたまま。どっちもどっち政治臭芬々。中国史書伝統を踏まえる「隋書」記述をもっと尊重していい。妹子や裴世清の往来もあった隋だ、また考古学金石遺物以上に今に伝わる仏像古文書等あり、これらも踏まえ総合的に判断すべきだし可能だ。

日本国史の変な伝統は記紀のみならず中国史書についても我田引水的読みをしがちだが、そこから自由でマシな読みがネットで大いに語られ始めているのもありがたい。隋書倭人伝についてもネット上に塚田敬章さんの丁寧な翻訳解説↓を拝見。ほぼ異存ない。http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

rac版古代史で注目したい諸点に絞って引用させていただくと、

1)裴世清来日時、朝鮮半島にはすでに倭の領土とみなせるものはないが、他方で「新羅も百済も皆、倭の国力をよく承知で、大国と敬仰し、常に外交使節往来していた」と隋書は書く。紀は聖徳太子時代の高句麗との往来もたくさん書いているが、これもおおよそ事実とみていい。

2)倭の国書で名乗り裴世清が倭の都で会ったという「アメノタリシヒコ、オオキミ」とは、天孫降臨(末裔)の大王の意味で、おそらくは聖徳太子そのひと。女王推古は「摂政に万機を委ねた」(紀)というから、卑弥呼的伝統で奥にあって異人には姿を見せなかった、として矛盾はない。

3)600年訪隋のとき倭の政治は「大いに義理なし」といわれてもへこまず607年訪隋時も「日出ずる所の天子云々」と臆せず、煬帝が「無礼だ、聞きたくない」と怒ったのは事実で、みな記憶に残ったから隋書も書いた。それでも裴世清を送って倭の偵察をさせたのは、目の前の高句麗征伐があったから、にちがいない。これに対して、紀編纂時の亡命百済系史官たちはすっかりビビり、600年叱られた第1回遣隋はそもそもなかったことにし同じくキツイことを書いてあったはずの607年第2回隋国書も途中でなくしたなどとウソを書いた;そういうレベルの人たちだったということだ。

3)倭の「徳仁礼信義智の12階位」も大小の別はあっても定数なしと隋書はいい、階位というよりその人の特長に併せた尊称のようにも見え独創的だ。残念ながら17条憲法には隋書言及ないが、後世の文飾はあっても、憲法の呼称そのもの(古代中国にはない用語?)や中身の独自性(聖徳太子はいなかったという向きもあるが、逆にこの辺の日本的翻案等独特であって)、また会ってみれば礼儀正しく謙虚な人だったと裴世清は言っており、大王聖徳太子そのひとの実在を感じる。

隋書東夷伝は高句麗百済新羅については(倭に比べ記録の連続性あり既知感からか)多くを書かない。高句麗については隋と長く戦争、百済は外交的に隋にすり寄って対高句麗戦に協力、新羅は元百済の附庸国だが百済が対高句麗戦に動いたため加羅を取った、と。なおこの三国が王号に拘っているのに倭はいっこうに関心なさそうだ。注目は煬帝軍が侵攻し宮室を焼き男女数千を捕虜にしたという「琉求」について新しく記事を割く(これが台湾か琉球かは未定とか)。隋書東夷伝の〆は「史臣曰」として煬帝が怒りに任せて高句麗戦を拡大し亡国に至ったことを非難、蛮国にも徳をもって臨むべきで領土を奪うようなことをしてはならないとのメッセージにつながる最後の部分で倭の独自性独立志向をむしろ好意的に書いている。隋書は人類史でもっともいい時代のひとつ貞観時代の魏徴の編纂だ、読みとして間違っていると思わない(笑)。

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