紀の語る半島外交:任那復興
1145年編纂の朝鮮三国史記はほとんど無視するが、720年完成の日本書紀の語る任那復興あるいは百済との関係を少し遡って年表風に整理する、以下。
475ー476年 百済ガイロ王、高句麗長寿王に負け、漢城を失い一度滅亡
477年 雄略、百済モンス王にコムナリ(熊津、任那のアルシタコリ県の別邑)を与えて百済復興に貢献。
479年 雄略、モンス王が死んだので(人質昆支王の次子末多=牟大を)東城王として筑紫の兵500を付けて帰国させる。筑紫の船団が高句麗と交戦。半島に派遣予定だった吉備氏は星川王子謀叛や蝦夷反乱があって派遣取り止め。
482-483年(清寧3,4年)海外の国々使者を派遣し倭の国情を探る。このころ蝦夷・隼人の乱収まる。
487年(顕宗3年)阿閉氏、任那を視察、対馬や壱岐の危機を知り援助?。紀氏(生磐宿禰)が高句麗と通じて「三韓の王」となろうと「宮府を整え神聖と称」して百済と交戦するも、力尽きて任那より帰還。
501年(武烈3年)百済の人質?オタラ死ぬ。502年(武烈4年)、百済の東城王、謀叛で死ぬ。島王(斯麻、昆支王の子、末多の異母兄。紀はガイロ王の子で日本生まれともいう)=武寧王が百済王に(三国史記は501年、東城王の第二子と。東城が謀叛で死んだことは認める)
504年(武烈6年)百済国、マナキシを遣使、20数年ぶりの遣使を不服とし抑留。505年(武烈7年)百済王、身分の高い骨族のシガキシを遣し朝廷に仕えさせる(人質?)
509年(継体3年)任那の日本の県邑に住む百済の人民で逃亡して戸籍が漏れたまま3,4世経たものを抜き出し百済に返し戸籍に入れた。
512年(継体6年)穂積臣押山(シタリ国守)を百済に派遣し筑紫の馬40頭を贈る。百済は任那のオコシタリ・アルシタリ・サタ・ムロの4県割譲を要請、大伴金村賛成、物部アラカビ(妻が諫めて)留保、4県を与える。大伴と穂積は百済の賄賂を受けたと流言あり。
513年(継体7年)百済、将軍文貴将軍2名と穂積国守を倭に遣使し(礼として)五経博士段楊爾を贈る。また百済、伴跛=ハヘ(星州高霊)が奪ったコモン(鉄産地谷那を含む)の返還要請。百済新羅安羅伴跛の代表を招集してコモン・タサ(帯沙江下流域)は百済に与えると倭朝廷裁定。伴跛国、不満を募らせる。
514年 伴跛、城を築き日本に備える。また新羅に侵攻し村邑を略奪。515年百済の将軍に物部を副えて帰国させる、巨済島で伴跛の横暴を聞き物部は船軍500を率いてコモンの帯沙江に直接向かい、百済の文貴将軍は新羅を経て帰国した。物部軍はコモンで伴跛軍と戦ったが敗れるが、翌515年夏までには百済と物部でコモンを確保したらしく、百済は物部を日本に返すとともにコモンを得たことに感謝し礼物多く、また段の交代に五経博士漢高安茂を送ってきた。
515年百済経由で、百済の将軍や日系官僚シナノと共に高句麗使安定らが来朝、誼を通じた。
523年(継体17年)百済の武寧王死し、太子即位聖明王。
527年(継体21年)近江の毛野臣、6万を率いて新羅を討ち南加羅(金官加羅)・トクコトン(慶山か昌原か)回復せんとするも、新羅がこれを知って賄賂を筑紫国造磐井に送り阻止。火・豊国から沿岸を巻き込んで合戦となる。天皇は大伴金村・物部アラカビ・許勢男人を派遣、翌528年鎮圧、磐井討たれ子の筑紫君葛子、糟屋屯倉を献上。
529年3月、百済、任那の多沙津(帯沙江河口、対馬に直行容易、もともと加羅任那の西の重要港)を請ったので与える。加羅、新羅と結び日本を恨む。再び毛野臣を安羅に派遣し南加羅・トクコトンの再建を図る。4月任那王来朝し新羅侵入に対し救援を請う。毛野臣、新羅百済王らをクマナリに召集するが二王は使者を送るだけで参集せず。新羅、任那の4村を奪う。
530年(継体24年)9月任那、毛野臣の横暴を奏上、天皇毛野臣を召喚するも応ぜず。任那王ついに百済新羅に軍兵を請う、二国任那に派兵、毛野臣応戦するも負け、二国は任那5城を攻略。毛野臣、対馬で死亡。
534-536年(安閑、宣化)筑紫や武蔵はじめ各地に屯倉(官家)を充実。
537年(宣化2年)新羅が任那を侵略したため大伴金村に任那救済を詔す。金村、子の磐は筑紫を押さえ、狭手彦が渡海し任那を鎮め百済を救う。
540年(欽明元年)高麗百済新羅任那から遣使、秦人漢人ら諸蕃を再配置し戸籍を整備した。うち秦人は総数7053戸、大蔵担当とし秦伴造とした。
541年(欽明2年)百済聖明王に詔し任那復興を命ず(安羅加羅卒麻多羅使者らと任那日本府吉備臣が百済に出向き伝える)。542年ー546年、百済ほぼ毎年遣使、調を奉り任那問題協議。
547年 高句麗不穏、百済援軍派遣を要請するも、548年370人の築城人夫派遣(でお茶を濁す)。548年高句麗濊が漢江北の独山城を攻めるが、百済新羅と協働して防ぐ(この項、三国史記)。550年 百済の功臣馬武を要求、また北敵強暴と聞くとして矢30具(具=50本?)・麦種千石を百済に送る。
継体欽明で倭国内再統一はなったようだが、紀穂積毛野など半島にゆかりある豪族は勝手に動き、倭として半島で大きな政治力を発揮することなどついにできず、応神雄略時代のレジェンドを頼りに口先介入ばかり、新羅百済任那からわずかな調や賄賂を巻き上げるのに終始する。↓聖明王が高句麗と対決したときもロクに援助できず、任那は新羅に呑み込まれ百済は半島西南の一小国に落ちぶれる。
550年 百済と高句麗が漢江流域で決戦、両軍疲弊のなか、551年新羅が漢江流域に進出し10郡を奪う。552年には百済が高句麗から奪った漢城を新羅が最終的に確保、新羅漢城含む黄海沿岸に進出、新州を置く。554年には、百済聖明王が新羅に報復すべく親征するが逆に狗川(忠北沃川)で新羅に討たれ聖明王死す。(この項三国史記)
551年(欽明12年)この歳百済聖明王は百済新羅任那の軍を率い高麗を伐ち漢城を回復。552年高麗新羅が百済任那を滅ぼそうとしているので少しでもいいから援軍が欲しい、と百済要請するも、応えず(任那と共に心を一にして戦え、天と天皇の加護があると返答するだけ)。553年百済毎月のように援軍要請するも、6月に(名前不明の)内臣を遣って馬2頭船2隻弓50張矢50具を贈り、軍は百済王の采配に任せる、と。他方で、医博士易博士暦博士等交代要員を送れと要請。なお紀は仏教公伝をこの年として聖明王が仏像他を贈ってきたと長々記す。554年百済の必死の援軍要請に対して兵数一千・馬一百・船四十隻派遣と約束、5月に内臣が舟師を率いて百済に詣った、と紀は書く(ナナシの内臣とか、どうにもウソっぽいけど)。(この項日本書紀)
三国史記編集時には紀も見たに違いないが、紀内容が三国史記と矛盾するとか相容れないとかではなく、任那というローカルな話題に微細にこだわり、嘘ではないにせよ口先ばかりで倭は何もできず実際大したことは起きてもいないということから、三国史記では紀の記述を一切無視しただけ。