#281 映画「ジョーカー・FOLIE À DEUX」に見る分断社会と感想 24/12/18
こんにちは。
今日は、時々アートに並んで書いている映画鑑賞の感想です。
作品は、「ジョーカー・フォリ・ア・ドゥ」です。2019年に封切られた一作目「ジョーカー」は、米国や世界の分断が叫ばれ始めたころに大きな反響があった作品でした。主演のホアキン・フェニックスさんもアカデミー賞主演男優賞を受賞されたのは記憶に新しいところです。
そこから4年あまり、コロナ禍を経て、そしてウクライナとロシアの戦争や、現在のパレスチナとイスラエルの戦争と、ますます分断の世界が進んでいます。そして、日本でも安部首相の事件も起こりました。民主主義の弱点を「分断」が突いている、そんな現在を表現した作品ではないかと考えます。
ティザー広告の映像では、W主演のレディー・ガガ演じるリーと、ショー舞台でスターを演じているシーンが取り上げられていることが多いので、そうしたスターダムにヒーローになることが演じられているのかな、と想像していました(わたしは、これ以上の事前情報をまったく入れておらず、出たとこ勝負で鑑賞しに行くことが多いです)。
当然ストーリーはそんなことはなく、前作で捕まった後のジョーカー、アーサーが描かれています。精神病棟に収容され、裁判の審判に向かうその過程を描いています。それ以上はネタバレになるため、記述は避けます。
さて、前作のあるタイミングで、ダークヒーローとして注目を浴び、自分を認めてくれる、ジョーカーの仮面をかぶり自己実現を果たしたアーサーです。そのリーダーに続いたフォロワーが、アーサーと似たような、社会的経済的に虐げられてきたと自覚している弱者たちでした。実際には上から見下すような一般慣習的に社会的な身分の高いアッパーミドル層と、その会に位置づけられた弱者層の分断があります。その分断を、ジョーカーはある意味上手に用いて、弱者のヒーローになっていきました。そして、自己効力感を感じ、ある種の自分の才能に覚醒し、ダークヒーローとして時代の寵児になり上がりました。
一方、そのジョーカー人格は、アーサーとは違い、小さい頃のトラウマ経験がもとに精神分裂をきたし、二重人格であると立証し、無罪を勝ち取ろうとしたジョーカーの弁護士がいます。アッパーミドルの弁護士が、弱者たちの自由への解放への期待を受け、そこでもその弁護士が、自分をヒーロイックになろうと利していたのかもしれません。そこで無罪を勝ち取れば、弱者たちの支持を受けることは間違いなく、弱者の見方としてふるまうことができるからです。
リーを演じるレディー・ガガもまた、ダークヒーローの存在を期待した1人だったように思います。リー自身は、実はアッパーミドル層であることがわかりますが、独立したジョーカー人格、1人の救世主ヒーローを期待していたのではないか、と考えます。
そのリーや、弱者ロウアー層が作り出した期待のジョーカーが、期待するジョーカーでないことが、幻想だったことが分かった途端に、みな離散する。SNSでバズった人が、一瞬のうちに叩かれ落とされる、そんなジェットコースター的な群衆の気まぐれとも言える残酷さを見せてくれます。そしてその残酷さは、ある意味で人間らしい、残念なことだけれども人間の愚かさと言える人間らしさ、を風刺描写しているのではないか、と考えます。
そして、この分断や救世主的ヒーローを待望することは終わらず、またその救世主になろうとする人は現れ、最後を迎えます。
なにやら、人間の本質的な一面と、その愚かさの残酷さ、そして、今の世界の分断に警鐘を鳴らしてくれるメッセージを感じました。
それでは、また。