シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと 著者:花田菜々子さん (2020/3/18出版)
本日はこちらの『シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと』の本を読んでの感想と、
それと比較して養育里親やその制度に関して思うところを書いていきたいと思います。
https://www.amazon.co.jp/dp/4309028705?tag=note0e2a-22&linkCode=ogi&th=1&psc=1
前提として、主人公は花田菜々子さんご自身。
独身で(ただし既婚歴があるので結婚・家族・離婚について考えられている経験が長い)、シングルファーザーと付き合いだし、週末家族を続ける中での話を(フィクションとして)書かれています。
この本に出会った理由
なぜこの本を選んだのかといいますと、RACのメンバーで次度の本を取り上げたいですか?というときに。とあるメンバーが「この本がいいです!」と挙げてくれたのです。
題名も帯もとっても興味を惹かれ、かつフィクションだけれどご本人の気持ちも書かれていそうな本ということでとても興味を持ちました。
なぜ気持ちや感情に、私がこだわるのか?というと。
里親さんに例えると、子どもが対象になっていることや自分の気持ちは表現として表に出しにくいわけです。個人情報保護や、子どもが特定されてしまっては問題なのと、隠すために匿名にすればするほど何も伝わらなくなるジレンマがあり・・・
でもそこでの葛藤や、もどかしい思いを共有せずして、どうやって家族のことを語るんだ!?という思いがありまして今回感想という形で自分の気持を載せさせていただいています。
なぜ私たちは「感想note」を書くのか?
私達の想いはこちらに書かせていただきました。お時間がある方、どうして本を社会的養護で説明したいの?という質問があればこちらをご確認ください。
★あくまでの本の内容紹介ではなく、感想になりますので
「面白そう!」と思った場合は是非、紹介させていただいた本をご購入ください。
そして本日は第3回目、どうぞよろしくおねがいします。
1.加害者になるのが怖い
第3章 仕事も家庭(?)もけものみち より。
まず加害者になるのが怖い、という気持ち。
とても分かるなぁと思いながら読んでいました。(状況としては4人で週末過ごす中で、自分が子どもたちにどう対応していいのかわからない、という内容の部分です。)
これはまさに中途養育で多くみられる”怖さ”だなと思うのですが
「彼ら(子ども)がどのように”自分の言葉”を受け取る人間なのか、まだ知る由もない」という状態から関わりがスタートするわけです。
しかも子どもたちの意思は問わず。(もちろん子ども本人の軽い同意は得ているかと思いますが、子ども自らが主体的に選んだのか?と聞かれると回答に困る場合も多いでしょう。。。。ここは里親とも少し似ていますね。)
例えば「前向きに」という言葉は、
昨年度まで一番嫌いだった言葉かもしれない。
一番嬉しかった言葉かもしれない。
離婚した母がよく使っていてなにか思い出される単語かも知れない。
そんな情報もなく、いきなり「家族になる」って…なんて難しいのでしょう。
そう思う中、作者の花田さんは子どもさんとの距離を少しずつ近づいたり遠ざかったり。ご自身の価値観がブレずにあって素晴らしいなぁと思いながら読んでいました。
実際には「子どもが自分の性器を、芸人のマネをするための手段として、見せてきたとき。外から来た女性としてはどう対応したらいいのか?お母さん的な存在として対応したほうがいいのか?」というようなエピソードである。
どう女性として、フェミニスト的な観点を持つ大人として関わるのか?と自分に問うていくシーンがあり、ここも自分の子育てと重なり共感ポイントでした。
この点は、実子の子育て中の人も悩むし、ステップファミリーももっと悩むし、里親さんも大いに悩むことろでしょう。
里親だと主に2人の養育者で子どもへのかかわり方を決めていくかと思いますが、正直なところ委託を受けたお子さんの”背景”を全て知っている人はおらず、児相もわかる範囲での情報を、差し支えない程度にしか里親さんに言ってくれないわけです。
そこから始まる関係性の難しさと言ったらないでしょう。
昨日(里親の絵本を出版された)あきさんがお話しされていたことに繋がりますが、
「まずは子どもが求めることに対応すること」が一番しっくりきますし、
その中で信頼関係を構築していくのだろなと思いながら読み進めていました。
子育てほど、正解のないものはないなと思うのですが、その難しさを感じたエピソードでした。
注:実際には里親さんは、養育の仕方などを研修で学んでいます。ただし実際のこまごましたことは研修の理論とは大きく離れていたり、対応に困る場合もあるのだろうなぁと思いながら書いています。
実際に不安なエピソードは、“里親”という立場では、外に出しにくいんですよね。
養育困難と認定され、つまり「この人は養育に向いていないんじゃないか」とみなされると、子どもの措置解除になってしまうわけです。
個人的には施設職員さんの場合は、1年目は最初だからという理由で複数のサポートがあるのかもしれませんが、里親だと最初から「完璧な里親」を求められているようで気になりました。
ペアレントトレーニングも、里親向けのトレーニングも両方ともに大事だなと思っています。
2.答えられなかったままの問い
第4章 迷いと不安とうつの春 より。
これもよくある事ですが、シンプルに書くと
「他人の家の課題にどこまで踏み込むか問題」です。
子育てしている瞬間も、あれ? あのおうち虐待なんじゃない?とかあまりにもひどい、子どもがかわいそう、というようなコメントをよく聞きます。それってあなた「独自」の価値観で判断してないか?ということはあるのでそこはクリアした上でですが、一般的に気になる子どもがあれば声をかけたり、189に相談が良いです。(これはハッキリ断言。)もしくはそこまででなければ、地元の民生員さんとか先生に伝えるとか。誰かが伝えるしか無いし、その声が多いほど複数の目が見てくれるからです。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dial_189.html
もちろんその子育ては、一部分しか見れてないはずでしょう。もしかすると発達障害や知的障害等があり対応として一見(虐待のように見える)そうせざるを得ない場合もありますし、その背景は本当に様々です。
でもだからと言って、「まぁいろいろあるからね、見て見ぬふり」は最終的に不利益を大きく被る子供たちがいます。
実際に間違って通報された障害児のママさん、子育て中のママさんを私は何人も知っているのですが、
通報=責められている、のではなく
189=お助けサービスとか必要ないですか? というのを聞いて回っているもの。
と変換して受け止めて行きたいなと。
肉体的に見える虐待ではない場合でも、マルトリートメントに対して行動を起こしていくこと、こそが私たちができる事かなと思いました。
マルトリートメントとは↓
(不適切な養育、避けるべき子育て、と言われますがやや表現が難しいのでこちらを御覧ください)
3.身内からの攻撃
これが一番私が、心揺さぶられたシーンでした。
いとこの同世代の女性に
すごいストレートに、「虐待率が高いよ」
というスティグマを投げつけられるわけです。
もちろんAであるひとのBの割合は高い、のは事実としてわかっていた場合であっても
AだからBなんでしょ、だからCなんでしょ? と決めつけて話を進めてしまう、のはスティグマや偏見なのでは?と思っています。
特に人に悪いように伝えるのは、偏見です。
もちろん、私達は全てを1:1の関係性で受け止めることは不可能で、
対象をまとめて、セグメント分けすることで頭で理解し整理して、行動を決めています。
それは人生において必要なことであり、それを否定はしません。
ただし、子育て中の家庭において、~~でしょ?とパートナーにあたる人に言うことは…
(もちろん、親戚だからこそストレート意見を表現して投げかけているのだと思いますが)もっと言葉を選ぶ必要があるのではと思うわけです。
(フィクションなので本当にこのセリフだとは思っていませんが・・・物語に対して感想を入れています。)
私なら、「子育てに人手が足りないってのはあるから、こういうサポートが必要なら言ってね!」等と言えばいいんじゃないかなぁとか。(おせっかいすぎるか・・・)
スティグマってなんだろう
ちなみにスティグマも分かりにくい言葉なので補足させていただきたい。
成育医療センターの子ども向けの資料(下記のリンクで全体が確認できます↓)ではそう説明されています。
https://www.ncchd.go.jp/news/2020/60b795a524385f4d495b3a7a8af33b5fa5fe38cc.pdf
個人的には糖尿病について書かれている小野先生のこちらの文章が、心にすとんと入りやすいので紹介させていただきます。
https://note.com/eajoydm/n/n1e81a63795d0
4.誰かと一緒に生きるということ
第6章が、「誰かと一緒に生きるということ」という目次です。
この言葉は、それはそれは、本当に使う人や状況によって意味に幅があるものだなと。
文脈的には主人公が誰とパートナーで、どう生きていくか、というところに焦点を当てた文章なのですが、
今回は恋愛や婚姻関係云々に関して、直接述べる場ではないので深くはコメントしません。
ただ、この言葉自体はしっくり来ます。
社会的養護下にいた子どもにとって、誰かと一緒に生きる選択肢はそこにあったのかどうか。それを考えさせられる言葉でした。
社会的養護はあまりに、人生のリセットボタンが不用意に押される瞬間が多く、子どもにとって自分の人生を肯定できる瞬間があまりにも不連続である。そう私は思っています。
そんな中で。細く長く自分の人生に関わって、つながってくれる人がいる、しかも複数いるというのは、人生における自分の階段の”のりしろ”が増えて、内容によっては相談できる相手が大きく増える手段だと思います。
(答えられなかったままの問いの部分での本文のエピソ−ドに出てきた、お友達の盗みの話もそうなのですが、子どもが相談できる内容によっては相談者を大きく選ぶわけです。ここはこのnoteだけで物語を説明するのが難しいので、よければ本編をお読みください!)
また「誰かと一緒にいきること」そのものを選べるのも、正直なところ大人になってからの話です。
子どもは一緒に生きる人を選べないのです・・・
だからこそ声を聴く必要性が高く、アドボカシーが必要ですし、
大人になっても自分が自分であることを受け止められたり、振り返られるような、一緒に伴走してくれる人の存在を増やしていく施策が必要だなと思っています。
5.あとがき
なんだかこの本を読んだときはあっとゆうまに時間が流れ。
どうnoteにまとめようかなと思い手書きのメモをしだしたら、
一瞬で紹介したい内容が決まりました!
軽快な文章のタッチで、爽快感を感じられる。読んで気持ちのよい本でした。出会わせていただきありがとうございます。
この著者の花田さんの本屋さんで、
ブックカフェみたいなイベントしたいな!
声に出したら、いつか叶う、と思いここに書かせていただきます!
そして書いていてですね。
調べたら今年2022年の2月に閉店されていたことがわかり、少し物寂しい思いをしているところです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6bbc9686fea79cdfc7257a1d24c686d6309b8b8f
それでもこの4年間での本屋さんのニュースと、花田さんが出版された本にパワーを頂きました。ありがとうございました!
また著者の方にも、このnoteの感想や読書会の感想を、ファンレターと一緒に送ってみようかなと思っています。
引きつづき次回のRACの読書noteをお楽しみに。
★2022年5月29日追記★
花田さんご本人にSNSを通して感想を送りましたら返信をご丁寧にいただきました(TT)。いつか絶対イベントに呼びたい!と思いながらコメントを噛み締めさせていただいています。