『1999年のサーフトリップ』第8章

<旅に出る理由>

旅に出るのには誰もみな理由があると言ったのは誰だったっけ?小沢健二だったか沢木耕太郎だったかな。俺に言わせればそれはどちらかと言えば嘘だ。人は訳も分からずどこかへ行きたくなる。とりあえず理由などない。理由や目的は後回しでいい。自分が旅に出る理由がどうしてもわからなかった人のために四国にどでかいテーマパークを創ってみせたあの空海先生ならきっと俺に賛成してくれるはずだ。大切なのは動くことそのものだ。むしろ行き先を決めるためにこそ理由や目的が存在する。運が良ければその旅が誰かに何かを教えることもあるだろう。

『1999年のサーフトリップ』について言えば、それはその名の通りサーフトリップだったから旅の目的は簡単だった。俺たちが求めたのは波だ。まだ見ぬ場所に打ち寄せるまだ見ぬ波だ。そこにそれがないか、それともそれがなくなれば俺たちはテントを畳み、サーフボードと一緒にダットサンに積んで次の場所へ移動する。

『1999年のサーフトリップ』は山口県の油谷町に始まって四国から近畿関東へと北上し、北海道の釧路を折り返してキャプテン・メモハブの母親が住む宮城県の港町で終わる。釧路まで行ったのは、どうせ東北まで来たなら北海道も行ってみようや、とキャプテン・メモハブが言ったからだ。
「見渡すかぎりの草原が見てみたいんだよ。この釧路湿原って期待できそうじゃん」
 結果的にはもちろん釧路湿原は「草原」じゃなかった。こんなのは面白くもなんともないオチなので最初に言っておく。

『1999年のサーフトリップ』はそのように釧路湿原が「草原」でなく「湿原」であることにも思い至らないような無知な若者たちの話だ。若者たちの青春の物語ならそれは何かを求めて得られないという話のはずだから、『1999年のサーフトリップ』はふたりの青年がただの波なんかじゃない、どこかに忽然と現れるという伝説のビッグウェイヴを探しに出かける物語だということにしたっていい。そうしたところで物語の中身はあんまり変わらないだろう。
そこで問題になるのは、

『1999年のサーフトリップ』を2024年に書こうとする俺の理由と目的だ。それが俺にはまだ良く分からん。

『1999年のサーフトリップ』はだから2024年にそれを書く理由と目的を探す旅でもある。

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