ポール・シュレイダー『聖なる映画 小津/ブレッソン/ドライヤー』要約

 『東京物語』や『スリ』、あるいは『ラルジャン』はなぜ素晴らしいのでしょう。
 ひとは小津安二郎の後期作品や、寡作であるロベール・ブレッソンの全作を何度も見ます。
 これらの映画の良さを言語化しようとすると、「テンポがいい」や「感情移入できる」といった紋切型の評価が愚にもつかないことが分かります。
 一方で、印象批評や規範評価も愚劣です。そうした評価に頼る「芸術映画」は「娯楽映画」よりはるかに悪いです。
 ポール・シュレイダーの『聖なる映画』は、この普遍的な評価基準を言語化した古典的名著です。
 実際、シュレイダーは『聖なる映画』の著者でありながら、『タクシー・ドライバー』や『レイジング・ブル』、果ては『ローリング・サンダー』といったバイオレンス映画の脚本家でもあります。

 『Taxi Driver』が無冠詞なのは『Pickpocket』と同じく、主人公の無名性・匿名性を表す。主人公が武器を身につける場面は『スリ』のスリ、『抵抗』の脱獄にインスパイアされたもの。主人公の朝食がミルク、パン、あんずのブランデーなのは、『田舎司祭の日記』の司祭の朝食がパンと葡萄酒であることのオマージュ。(「リチャード・トンプソンによるポール・シュレイダーのインタビュー」(『フィルム・コメント』1976年3・4月号)(「訳者あとがき」(『聖なる映画』)より孫引き))

 印象批評や規範批評に阿らないバイオレンス映画に傑作がある一方、『映画秘宝』のような悪趣味は愚劣です。
 再言になりますが、『聖なる映画』はこの普遍的な評価基準を言語化しています。この分析概念は映画に限らず、フィクション一般で使えるでしょう。

 なお、『聖なる映画』は小津安二郎の分析につき、禅を援用しています。作中でも便宜的・道具的な概念と断っていますが、オリエンタリズムの悪影響はあるでしょう。
 蓮實重彦の『監督 小津安二郎』は、『聖なる映画』が小津安二郎の後期作品に偏っているのに対し、小津安二郎の全作品を対象とし、その多くがアメリカ映画に依拠していることを指摘し、『聖なる映画』を援用しつつ、より純化した理論を展開しています。
 また、蓮實重彦による厚田雄春のインタビューである『小津安二郎物語』は、小津安二郎の撮影風景を克明に伝えています。小津安二郎の映画監督というより古刹の住職らしい撮影風景は、それだけで面白いです。また、小津安二郎の身辺も伝えています(小津安二郎が後年、『東京物語』をセンチメンタリズムに流されすぎたと自戒していたという話など、どうかしています)。

 また、『聖なる映画』は1981年の刊行なので、ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』に関する言及はありません。
 作中でも言及していますが、ロベール・ブレッソンには『シネマトグラフ覚書』というきわめて明晰な自己分析があります。より簡便な著作です。

○序文

p.20 超越者が超越するものは内在的なもの(意識体験)。
・「超越的」:1. 超越者、至聖者(ザ・ホリー)、オットー『聖なるもの』の「絶対他者性」。 2. 超越的なもの、その表現、エリアーデの「聖体示現」。 3. 超越と宗教的経験…ノイローゼ(フロイト)、「他者」の力(ユング)による。

p.24 レウー『芸術と聖なるもの』:「キリスト教の科学がないのと同様に、キリスト教の芸術はない」

p.27 「超越的スタイル」の批評の方法はエリアーデ=ヴェルフリン的な方法:1. 聖体示現・超越者の表現がある(エリアーデ)。 2. あらゆる文化共通の芸術的な表現形式がある(ヴェルフリン『美術史の基礎概念』)。

p.28 超越的スタイルを用いたことのある監督:アントニオーニ、ロッセリーニ、パゾリーニ、ベティチャー、ルノワール、溝口、ブニュエル、ウォーホル、マイケル・スノウ、ブルース・ベイリー。
・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』は表現主義、パゾリーニ『奇跡の丘』はマルクス主義、ベティチャー『七人の無頼漢』は心理的リアリズムと混淆。

p.30 超越的スタイルは存在の神秘を極大化する。つまり、現実についての伝統的解釈、写実主義、自然主義、ロマン主義、表現主義、印象主義、そして合理主義を退ける。
・エイフル『映画と聖なるもの』:「すべてが因果関係あるいは決定論で説明されると、聖なるものはなくなってしまう」…超越は内在的なものとは相容れない。

・ブレッソン「遮蔽物」:観客が出来事を「理解」するためのプロット、演技、性格描写、撮影、音楽、会話、編集。伝統的な現実解釈は超越的なものを希薄化する。

p.31 デオンナ『原始主義と古典主義』:合理主義/不合理主義、変化/反復、俗なるもの/聖なるもの、人間的なもの/神的なもの、視覚的写実主義/知的写実主義、三次元的像/二次元的像、実験/伝統、個性/無名性。
・原始主義は「人類と万物を強い一体感に包みこみ、人類の宗教心の本質をなす世界観」(ゴールドウォーター『二十一世紀におけるプリミティヴィズム』、ヴァテル『未開民族の宗教的な造形美術』)。

・ヘレニズム以降、文化から宗教的原始主義が出現するたび、新しい芸術のスタイルが生じる。:ビザンティン、ゴシック、シュプレマティズム。そして超越的スタイル。

○小津安二郎

p.39 リチー『日本の映画』によれば、黒澤が最左翼(現代的)、小津が最右翼(伝統的)。小津はトーキー、カラーの導入ももっとも遅かった。

・佐藤忠男によれば、小津は反動的だと見なされ、とくに『秋日和』公開当時は60年代安保闘争の世情がまったく反映されていなかったため、若手批評家はこれを黙殺した。
 しかし、小津は流行に背馳したが、それによる反発はフランスでブレッソンが遭遇したものよりずっと小さかった。ブレッソンは美学上の先行者としてスコラ派まで戻らなければならなかったし、大衆的な人気や興行上の成功の見込みは一切失われた。

p.40 小津は初期には会社のお仕着せでロマンティック、社会的な主題の映画を撮ったが、第二次大戦以降は、もっぱら「庶民」ジャンル、「庶民劇」を撮った。「庶民劇」は日本の中産階級が自身を笑いの対象にできるほど成熟したあと、1920年代後期-30年代前期に勃興。『生まれてはみたけれど』(1932)が「思索的というより行動的」(Tom Milne『Flavor of Green Tea Over Rice』)で、特殊・社会的なのに対し、再映画化の『お早よう』(1959)は普遍的・風刺的。
・時の流れ、物質的な豊かさ、戦争、圧政、西欧化が「庶民劇」一般と小津作品を謹厳にした。軽喜劇が「諦観の悲しみ」に。これはジョン・フォードが「西部劇」を変えたのと同じだ。

p.42 リチー『日本映画』『小津安二郎の美学』:「家庭の中に全世界が存在し、家を出ると、すぐそこが地球の果てであるよう」
・『早春』(1959)では「会社」が「家庭」として機能。家庭-会社、親-子の葛藤。それは古い日本-新しい日本、伝統-西欧化、人間-自然の葛藤だ。
 小津は晩年、「庶民劇」のパターンに沿った葛藤に集中する。その葛藤はドラマ化でも、もちろんプロットでもない。小津の考えでは日本人の生活は分裂している。それを人為的にでなく和解させる。

"「見えすいたプロットの映画は私には退屈だ。もちろん映画である以上、構造がなくてはならないが、ドラマ、あるいは事件が多すぎるようなのは良い映画ではないと思う」"
"「(『秋日和』について)劇的なものを全部とり去り、泣かさないで悲しみの風格を出す。劇的な起伏を描かないで人生を感じさせる」"
(リチー『小津安二郎の最近の映画』(所収『日本映画』)(初出「小津安二郎――自作を語る」(『キネマ旬報』1952年6月下旬号)))

p.42 後期作品=1949-62年の13本の主眼は親子の断絶。その表れは些細なもの。現代日本の分裂=第二次大戦(戦後派(アプレゲール)と西欧化(会社人間))。その原因はコミュニケーションの不足ではない(対して、アメリカの非行映画:『暴力教室』、『理由なき反抗』、『ワイルド・エンジェル』)。小津作品では人間関係が非常にうまく行っている場合でも、感情の交換・同情を伴ったコミュニケーションは行われない。ことばのコミュニケーションに頼らない、伝統的な家族間の結びつきの消失による断絶。

p.45 決まったパターンの葛藤。改作。長い準備期間と機械的な制作。小津「一家」。「本質的」資質で選ばれた座組。
・技術の洗練。映画界でもっとも形式にやかましい監督。
 リチー『小津安二郎――その映画構成』(所収『日本映画』):畳に座ったときの座高=床上90cmのアイ・ポジション。固定ショット。後期作品ではパン、移動、ズームはない。唯一の映画の区切りはカット。それも衝撃を与えるものでも、比喩的・対照的なものでもなく、一定のリズミカルな連続的なカット。
・全フィルモグラフィーを通じて抑制的になる。後期作品でも『麦秋』の技術の一部は『小早川家の秋』、『秋日和』でなくなる。:1. 移動撮影(『麦秋』では15回) 2. クローズ・アップ(芝居を見る老人の顔) 3. 感情を表す仕草(ハンカチを投げる) 4. アクションの繋ぎのカット 5. 「終結部(コーダ)」のような区切りとしての戸外場面のインサート・カットを挟まない編集 6. 明暗法(キアロスクーロ)(対して、平板な照明)(ただし初期作品でも稀)
・使用の減る技術:1. 正面以外(真横)のアングル 2. 比較的短いショット 3. 軽い喜劇的なシーン

p.49 小津は生涯独身で、老母と同居。小津がよく扱ったのは親-子の緊張関係、「解体する家族」の心の傷。多くの映画監督同様、主役の年齢は小津と一致。後期作品ほど登場人物は日本の伝統的美徳を体現。一方、陸軍時代など、小津が作品に反映させなかった経験も多い。

p.50 クマーラスワーミ『キリスト教と東洋の芸術哲学』(所収『なぜ芸術作品を展示するか?』):西洋芸術は私が中心的な行為者だという錯覚に基づき、東洋芸術では人間の個性は目的でなく手段に過ぎない。…超越的なリアリティに、個性と文化の双方が内包されている。
 p.52 登場人物の個々の感情は束の間の重要さしか持たない。これらの感情に持続する価値を与えるのは形式。それらの感情は経験でなく、表現という大きな形式の一部。超越についての文化的・個人的経験の表現でなく、超越者そのものの表現。ゆえに、その形式は経験でなく表現。…小津は俳優から心理的ニュアンス・感情を剥奪するため、同じ場面を20-30回も演じさせた。

p.54 日本の芸術の真髄は禅(ワッツ『禅の精神』、Warner『The Enduring Art of Japon』)。
 小津も同様(Milne)。

・禅の芸術の原理は第一「公案」の「無」(空)。ウィル・ピータースン『石庭』(所収『The World of Zen』):辺角の景。馬遠が『寒江独釣図』で創始。空、沈黙、静寂。芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」、石庭。
 ・小津:『麦秋』の原節子が結婚を告げたあとの両親の寡黙。『お茶漬けの味』の画面隅の飛行機の離陸。
  …何より「終結部」。シーン:劇の葛藤は室内の長い淡々とした会話のみで進行。家族、会社、バー、料理屋。「終結部」:人気のない通り、露地、通過する列車・船、遠くの山・湖。リチーによれば、1. ロング・ショット 2. ミディアム・ショット 3. クローズ・アップ が1-2-3-2-1で構成。さらに1に「終結部」の静物画・風景画的ショットがインサートされる。小津作品に章はなく、あるのは「節(パラグラフ)」と「終結部」のみ。この「終結部」は龍安寺の石庭の「無」と同じ。:ピータースン「人が去ったあとの空。人間がかつて存在した名残り。結果、孤独と人間への思索が感じられる」。ワッツ『ビート禅とスクゥーア禅』(所収『禅の道』):「人生に過去がなく、未来に目的がないとき、その空虚は現在に満たされる」。

・茶の湯は多くの規則・儀式次第を通して「無限に広がった現在」を感じさせる。禅林句集の只管折坐。禅の「エカクサナ(目的のない、自己充足の永遠の今)」。
 ・リチー「小津作品の登場人物の多くは歴史を持たない。彼らは死ねばそのまま消える。小津作品にアラン・レネやベルイマンのような亡霊は存在しない」。
  ・『秋刀魚の味』のバーの時計のショット=時間の超越。
  ・茶の湯の規則のように、登場人物のいる場所で会話が変わる。家では家庭事。会社では会合の場所・時間。料理屋では思い出、結婚・家庭事など社会的問題。バーでは懐古、若者や会社への愚痴。禅でいう「制御された偶然事」。

p.62 禅では芸術作品に完全な同一性は存在しない。同一に見える二つのものは、どんなにささやかだろうと必ず違いがある。映画は写真的同一性を持つことができるが、小津は同じショットも別々に撮影した。
 反復の中に変化がある。東洋芸術はオイディプス王の失明のようなカタルシスを中心に組み立てられていない。劇的な振幅がなく、循環的。人間と自然の永遠の「一如」。クマーラスワ―ミ『アジアにおける芸術理論』(所収『芸術における自然の変形』):「西洋芸術は時間の中の瞬間、停止した動き、光の印象。東洋芸術は途切れない連続」
 ワッツ「「無」は「風流」という4つの禅の基本的気分を起こす。「寂」、「真如」を発見したときの「侘」、「あわれ」、「幽玄」」。…リチーは小津作品の「もののあわれ」を「共感的悲しみ」、その基調を「侘」と説明。

p.64 禅と禅の芸術の根本は「万物一如」。小津作品の最大の葛藤は俗事でなく「環境の」それ。老人は若者と、職人は会社員とコミュニケーションできない。最終的に、現代の日本人が環境とコミュニケーションできない。『秋日和』、『早春』の酒宴。
 近代化で人間-自然の分裂が分裂症的に激化。戦後派の若者の侮蔑(羽仁進、大島渚)は諦観・無常の「流れ」という概念への侮蔑。
 小津は老人と若者、人間と自然を作為的に統合しようとしない。万物一如の「風流」の大きな背景の前にこれらのものを置く。『東京暮色』の戦後派の娘は、父と同じ「もののあわれ」の悲しみを表す。『お茶漬けの味』の失敗は、「もののあわれ」の共有=あらかじめ存在していたものの理解でなく、妻の転向、冷淡から「あわれ」への心変わりを描こうとしたから。小津には非常に珍しいことに、彼は自分の主張を通すために、ストーリーにトリックを仕掛けた(飛行機の欠便)。小津自身、「あまり出来のいい作品ではなかった」と自認。
 アンダースンとリチーは、小津は若者と老人、双方の世代の代理人と認める(『日本映画』)。

p.68 小津作品の最後の場面は究極の終結部。伝統的な山、現代的な発動機船・煙突。小津は葛藤をとりのぞくというより、超越する。
 小津の個性はその登場人物と同じく、「もののあわれ」という包括的な感情に溶けこみ、ついにそれと区別できなくなる。これこそ禅の芸術の境地。

p.72 小津、ブレッソンの「あわれ」、理想、恍惚など、超越的なものを表現したい欲求は超越的スタイルの三段階に形式化される。「山は山であった。禅を理解したと思ったとき、山は山でなくなった。禅を理解したとき、山はふたたび山であった」。

・1. 日常的なもの:日常生活の退屈で平凡なありふれたものの詳細な表現。エイフル「日常的なもの(ル・コティディアン)」(ジャン・バゼーヌ『現代絵画ノート』)。…現実を超越者が侵入しやすいように整える。あとで壊されてしまうための日常的現実という藁人形を、細心の注意を払って組み立てる。
 人為的な「現実」(とくに「写実主義」の)のほとんどには、あとで監督がすり抜けるためのぬけ穴が用意してある。ブニュエルの冷酷な『忘れられた人々』の冷酷な「写実主義」は移ろいやすい感情で満ちているので、あとで「写実主義」の境界線を越えて空想に入りこんでも驚けない。この前空想的な「写実主義」は日常的なものではない。日常的なものは、このようなぬけ穴をすべて塞ごうとする。偏向した現実解釈のすべてを。日常的なものの世界では、何ものも感情を表さない。冷淡さがすべて。
 小津作品ではすべてのショットは同じ高さ、すべての構図は静的、すべての会話は単調、どの表情も穏やか、編集はカットだけで直進的。ひとつひとつの行為には関連がなく、どの出来事も次の出来事のきっかけとならない。出来事はシーンの途中で起こる。舞台が設定され、会話が行われ、一言二言、重要なことが語られる。しかし、会話はそれを無視して進行し、議論は宙ぶらりんのまま脇道にそれ、人々は退場し、シーンは終わりに近づく。出来事をシーンの中頃に置くことで、出来事はそのカタルシスの意味を剥奪され、生活の「流れ」の中に置かれ、様式化される。ブレッソンはこれをドアを開けるといった単純な事柄に使い、ベティチャーではこれがストーリー全体を包みこんでいる。
 日常的なものそれ自体が目的なら、ウォーホルの初期作品のように、意味、表現性、ドラマ、カタルシスが剥奪された生活を描くだろう。だが、超越的スタイルの一部なら、それは平凡な現実が超越される救いの瞬間の前兆なのだ。

p.75 2. 乖離:人間と環境との分裂。分裂が高じて決定的な出来事になる。ブレッソンの「決定的瞬間」(ジャン・セモリュエ)。…日常的な現実の単調な表面に広がる裂け目。フライターク『戯曲の技巧』(五部三点説)の起点。第一段階が感情の否定、無益さで、第二段階はこの陳腐な世界の否定。そして観客は感情がどんな役割を果たすか期待する。
 エイフル「密度の高い人間らしさ」、「超越的価値が実在するように思えるのは、人間的価値が少しでも実在するから」。
 もし人間が無情な環境で優しい感情を持つなら、人間と環境の間には乖離が存在する。もし環境が無感動なら、人間の感情はどこから生まれるのか。この限りないあわれみの感情は、無感動な状況、あるいは人間的な本能から生じることはありえない。それは存在の超越的な基盤に触れることによってのみ生じる。
 人間と自然の乖離。終結部の雪山のショットは、親同士の議論のあとも、親子喧嘩のあとにも挿入される。
 小津作品のあわれみの底流。会話、撮影・編集の技術と結びついたものでなく、撮影のニュアンス。佐藤忠男『小津安二郎の芸術』:『晩秋』の杉村春子と原節子の礼のずれ。ごく当たり前の日常生活の光景だが、厳密な幾何学的構成の画面の中では、ひどく新鮮に感じられる。
 『東京物語』の笠智衆と東野英治郎の酒宴の、笑いと同情。小津のカメラは愚かしくもまた高貴なる人間の行為をすべて見つめる。その観察の率直さと公平さが観客に感銘を与える。
 超越的スタイルの映画では、アイロニーが分裂症的世界に生きるための一時的な解決法だ。達観し、善にも悪にもユーモアを見出す。『東京物語』の東山千栄子の布団。『秋刀魚の味』の河合と平山、堀江と河合の他愛ない嘘。
 小津の人物のアンヴィヴァレンス、アイロニーはミロシュ・フォルマンと似ている。しかし、小津は軽喜劇を離れて謹厳にになる。
 乖離はゆるやかに進行し、日常的な現実の固い皮膜を侵食する。それはあわれみの「感じ」でしかないが、やがて決定的な出来事が起こる。決定的な出来事は日常的なものの様式化を無効にする(ドライヤー『奇跡』ほど極端でなくとも)。日常的なもので観客の感情を傷つけ、乖離によって快く刺激し、そして決定的出来事で感情を流出させる。観客がそれにどう応じるかで「静止状態」の成否が決まる。
 『秋刀魚の味』のそれぞれの終結部。とくに杉村春子、岩下志麻、笠智衆の涙。これらは人前で見せるものでなく、心の奥深いところからの感情の迸り。『東京物語』の有名な原節子の涙。

"「ラストシーンの深い感動を準備していたものは、明らかになにもなかったのである。しかもそれは、この作品がそれまでずっとそこに向かって進展してきた、まったく自然なクライマックスなのである」"(Milne)

 決定的な出来事は最後の乖離だ。最後の乖離は観客に関わり合いを要求する。観客がこの場面を受け入れれば、もっと多くのものを受け入れることになる。つまり、完全な乖離=無情な環境と、非論理的・超人間的な感情の乖離を許容する哲学的イメージを受け入れる。人間と自然が断続的に触れ合うことのできる、あわれみと認識の深い基盤=超越者。

p.85 3. 静止状態:乖離を解決するのではなく超越するところの人生の凍結した光景。
 すべての宗教芸術で完全な静止状態・凍結した動きは、現実と両立可能な第二の現実のイメージを確立し、「絶対他者性」を表す。小津作品では「一体性」を暗示する静物の光景。それは作品の始まりと同じ光景だが、方法が異なる。『晩秋』の壺。
 超越的スタイルの目的は平山の涙を観客に分かち与えることでなく、この涙を浄化し、より大きな形式に統合すること。ミサのように、多くの感情を包みこむが、それより重要な何かを表現する。
 超越的スタイルの目的は、観客の習慣的で堅固な感情への信仰を弱め、ある人生の見方を受け入れさせること。すべての感情は、どんなに矛盾したものでも、それ自体には力がなく、すべての現象の内的一体性を表現する普遍的な形式にすぎないという見方。静止状態は感情移入を審美的な理解に、経験を表現に、感情を形式に転化する。

p.92 超越の経験を伝えることはできない。経験は1人の人間の反応であり、形式はすべての事物の共通の基盤。

p.93 決定的な出来事:パゾリーニ『奇跡の丘』の不具者の治癒、ブニュエル『砂漠のシモン』の切断された腕の再生。
 静止状態:溝口『山椒大夫』『雨月物語』のラスト、アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』のラスト。
 アントニオーニ、日常的なもののウォーホル、乖離のフォルマン、決定的出来事のブニュエルは、超越的スタイルの芸術家ではない。超越者だけを扱っているのではないからだ。

p.93 超越的表現の東西の違いは「悟り」と回心の違い。「悟り」は一瞬だが、回心は二部から成る。復活の伴わない磔は意味がない。
 小津の乖離は内的。自身の内側に自然を見出すことができない。ブレッソンの乖離は外的。敵対的な環境と調和することができない。小津にはブレッソンの肉体の脆さや敵対的な環境への抗議はなく、ブレッソンには小津の環境の諦観的な受容はない。ブレッソンの決定的出来事は環境に対抗する孤独な一人物に限られ、つまり救世主。小津では多くの登場人物が決定的出来事で超越者に関わる。

○ロベール・ブレッソン

p.100 直観的、個性的、人文主義的な映画にあって、ブレッソンは非直観的、非個性的、イコン的。エイフル「ジャンセニズム的演出」、バザン「救済と至福の現象学」、ソンタグ「精神的スタイル」。

p.104

・ブレッソン"「映画はスペクタクルではない。それはなによりもまずスタイルである」"。

 宗教的感性は形式主義を生み出す。礼拝式、ミサ、賛美歌、聖人崇拝、祈祷、呪文。

・ブレッソン"「映画の主題はきっかけにすぎない。内容より形式のほうがずっと観客を感動させ、高潔な心にすることができる」"(Janes Blue『Excepts from an Interview with Robert Bresson』)。

 主題となる事柄はきっかけ(プレテクスト)で、形式が効果を持つ媒介物。無論、優れた作品では内容と形式の区別はつかなくなる。

"「私は自分の作品の主題よりも、映画独自の言語のほうにずっと専心している」"
"「私は形式が非常に重要なものだと思う。そして形式はリズムを生みだすと信じている。リズムというものはまったく強迫的なものである。観客の心のなかに入っていくには、なによりもまずリズムが必要なのだ」"(ゴダール-ドラエ『The Question: Interview with Robert Bresson』)

p.106 ビザンティン美術の「外見(サーフェイス)の美学」。抹消的な細部描写への専心。中国の磁器、イスラムの絨毯、ビザンティン建築。記録映画。『抵抗』について「記録映画となるように願っている」。『ジャンヌ・ダルク裁判』の字幕「作中で語られる多くの言葉は事実として確認されたもの」。
 シネマ=ヴェリテの「真実」追求の欲望でなく、あるのは現実の外見のみ。容易にそれと分かる記録映画的手法。

"「単なる"写実主義"以上の究極的な写実主義にしたいのだ」"
"「立ちふさがるものがあまりにも多い。多くの遮蔽物がある」"(ゴダール-トラエ)

p.110

 "「私は自分の作品からいわゆるプロットというものをどんどんなくすようにしている。プロットは小説家のトリックなんだ」"

プロットという「遮蔽物」は出来事と観客との間に単純で安易な関係を作りだす。観客がある出来事に感情移入すると、観客は人生の営みにじかに関わり合っていると感じ、それが何らかの方法で自分の思いのままになると感じる。観客はプロットの結末がどうなるかの予想はつかないが、その結末が自分の感情に納得のいくようにさせるものであることは知っている。
 『抵抗』の原題は「死刑囚が逃亡した」。『ジャンヌ・ダルク裁判』はイギリスの番兵が何度も結末=事実をくり返す。

"「私は内面的ドラマから観客の注意をそらすようなものはできるだけ排除する。私にとって、映画は内面的なものの探求なのだ。心の領域内では、カメラはなんでもできる」"
"「ドラマティックな物語は捨てるべきだ。それは映画とはまったく関係のないものだ。映画でドラマティックなものを表現しようとしているのを見ると、鋸を金槌のように使おうとしているように見える。映画の邪魔となる演劇というものがなかったら、映画はもっとすばらしいものになっていただろう」"(Blue)

p.112

"「俳優というものは(そしてとくに)才能豊かな俳優ですら、あまりにも単純な人間のイメージを、それゆえに偽りのイメージを私たちに与える」"
"「私たち人間は複雑なものなのだ。それなのに、俳優が浮かびあがらせるイメージは複雑なものではない」"

心理表現の演技は「高度に精神的なもの」を人間化してしまう。それが「稚拙」ではなく「優れた」心理表現の演技の場合にはなおさらだ。

"「だれも俳優の心のなかに入りこむなんてできるはずがない。役づくりをするのは、だれでもない俳優なのだから」"

・演技を生理に変えるために、無表情でいることを指示する。個性を純化させて機械的な演技をさせる。

"「(『秋日和』について)一つのドラマを感情で表すのはやさしい。泣いたり、笑ったり、そうすれば悲しい気持ち、うれしい気持ちを観客に伝えることができる。しかし、これは単に説明であって、いくら感情に訴えても、その人の性格や風格は表せないのではないか。劇的なものは全部とりさり、泣かさないで悲しみの風格を出す。劇的な起伏を描かないで人生を感じさせる。こういう演出を全面的にやってみた」"
(「映画の味・人生の味」(『キネマ旬報』1960年12月号))

・小津、ブレッソンとも、性格でなく、ただ肉体上の指図(頭や手首の角度など)を指示。

p.115 ブレッソンは撮影を1つの角度・1つの基本的構図に限定することで、論説的能力をとりのぞく。

"「私は撮影角度をめったに変えない。ある人物がもしそれまでとはまったく違った角度で示されるとしたら、その人は前と同じ人でなくなってしまう」"
(Blue)

・小津がアイ・ポジションを畳の座高に据えるのに対し、ブレッソンは胸の高さに据える。小津と同じく、ブレッソンも人物を正面の構図で捉える。静的に整った構図の環境は、出来事に対して額縁として働く。登場人物は額縁の中に登場し、演技し、退場する。
 ブレッソンは「美しい」映像も退ける(対して、ヴィーデルベルイ『みじかくも美しく燃え』の美、フェリーに『サテュリコン』の野卑、『オーダレン一八三一年』の絵画的映像は雄弁すぎる)。ブレッソンは自身の映像を「平板なもの」にする。

"「たとえば蒸気アイロンを映像にする場合、それにかかわる身振りなどの表現をすべて排除してしまい、その映像を平板なものにするのだ。次に、それをまったく同じような映像につなぐと、突然それはもう一方の映像に強い影響を与え、これら二つの映像がともにまったく今までとは違った外見を示すようになる」"
(Blue)

・バザンによれば、『田舎司祭の日記』の原作は絵画的に華麗で(野兎狩り、霧)、ルノワールに相応しい。

p.118

"「耳は目よりずっと創造的なのだ。もし舞台装置を音にとりかえることができるなら、私は音のほうをとる。これによって一般観客の想像力が解放されるからだ。このことが、物事を見せることより、物事を想像させるのに役立つからだ」"
(Blue)

・対位法的な音の使用。解釈をさし挟むためでなく、冷たい現実を強めるため。自然音、つまり車輪の軋み、鳥の鳴き声、風のうなり。細部の音=音のクローズ・アップ。カメラでは不可能な日常の生活感、細部への関心を呼び起こす。
 音楽は感情的・論説的。ブレッソンの決定的瞬間の音楽(『抵抗』のミサ曲ハ短調)は、小津の終結部での音楽と同じく、非常な環境での動的な音楽の爆発。
 日常的なものは感情や知性の出口を塞ぎ、観察に「未知なるもの」に直面しなければならない準備をさせる。観客の解釈したいという自然な欲求を許さない(ロシア・フォルマリズムを参照せよ)。

p.121 ソンタグ『反解釈』:「二重化」…絵画におけるシンメトリーとモチーフの反復、エリザベス朝演劇のダブルプロット、詩の韻律形式。
 『スリ』では日記の文字を映し、それをナレーションし、しかも示す。『田舎司祭の日記』、『抵抗』では主人公は画面内の自分の行為をナレーションする。それも機械的な口調で(対して、オフュルス『忘れじの面影』、リーン『逢びき』)。

p.129 『田舎司祭の日記』の司祭の「聖なる苦悩(アゴニー)」、情熱(パッション)。ジャンヌ・ダルクの「声」。『抵抗』のフォンテーヌの「逃亡の意志」。『スリ』のミシェルの「する意志」。
 冷たい現実の環境に生きつつ、環境に順応するより、環境と無縁なもの、(環境に反応せず)「他者」に反応。…ジャンヌが堕落した宗教裁判官の尋問に誠実に答えるのは筋が通らない。

p.131 アイロニー:『田舎司祭の日記』のオートバイ、『抵抗』の独房の捜査。観客は乖離のディレンマを受け入れようとしないから、アイロニー=緊張とユーモアで一定時間保つ。

p.132 決定的出来事:『田舎司祭の日記』の司祭の死、『抵抗』の脱獄(神の恩寵の化身であるヨーストを伴う)、『スリ』の監禁とジャンヌへの愛、『ジャンヌ・ダルク裁判』の殉教(火刑柱と鳩・鐘の音の象徴)。
 『ジャンヌ・ダルク裁判』では監房を出入りするときの掛け金の大きな音が、プレ-決定的瞬間、終結部になる。『抵抗』のミサ曲、『スリ』のすり行為。

p.136 (平山の涙やミシェルの恋など)感情の関わり合いの機会を与えられた観客は、二者択一を迫られる。自分の感情を抑え、作品を否定する。もしくは、自分の感情に自分の思考を合わせる。そのとき、観客は自分自身の「遮蔽物」を作る。それは非常に単純なもののはずだ。『スリ』のミシェルやジャンヌは互いに繋がりのある精神の持主で、『田舎司祭の日記』の司祭は聖なる苦悩の犠牲だ。ブレッソンは観客の無意識の防衛機制を利用して、観客が自分の予定通りに、自分の意志でさせる。
 「変化」の瞬間。

"「ある瞬間に変化がなければならない。それなくしては芸術はありえない」"
"「私の気づいたことは、映像というものは平板になればなるほど表現が少なくなり、それだけほかの映像と接触して変化するのが容易になるということだ。映像にとって必要なのはそれぞれの映像が互いに共通点を持つこと、それらの統合体のようなものの一部となることだ」"

p.137 静止状態:『抵抗』のフォンテーヌとヨーストが去る夜の街路、『スリ』の監禁されたミシェルの顔、『ジャンヌ・ダルク裁判』の火刑柱の基部。
 ブレッソンは『抵抗』について「刑務所内に実在した、すべてのものを指図する見えない手」、「"神"と呼ぶことのできるものの存在」を感じさせたいと発言。
 ジョン・デューイは『芸術論』で経験-表現-経験の関係について、感情は美的表現の仲立ちと分析。

"成功した芸術作品では、人間の経験は個人的であると同時に文化的でもある人間的な表現になっている。成功した超越的スタイルの芸術作品では、人間的な表現形式が表現の普遍的な形式によって超越されている。小津やブレッソンの作品の結末に出てくる静止した光景は、超越的スタイルそのもののための小宇宙である。それは超越者を表現する凍結した形式である。つまり映画の聖体示現なのである。"(p.143)

p.144 ブレッソンは文化的には反動的だが、芸術的には革新的で、その逆説はブレッソンの内的論理にある。宗教的狂信家、苦悶する黙想的なロマン派。宗教教育、収容所体験、罪の意識のせいで神経症的人生を生きなければならなくなった。
 文化的流民、自滅的な神経症患者、異常な天才。そして古い文化の代表者。
 精神性、自由意志、運命予定、恩寵への関心。

p.147 監獄の隠喩。プラトン『パイドン』の「精神の檻」、『ローマ人への書』の「肉体の虜」。カルヴァン『キリスト教要綱』:「(死によって)「たましい」が肉体の牢獄から解かれる」。
 ジャンヌ・ダルクの殉教。田舎司祭は苦行者。ミシェルの自由は監獄の中にある。フォンテーヌも苦行者的。
 肉体の死による魂の解放。聖アンブロシウスは称揚。聖アウグスティヌスと聖アクィナスは反論。Marvin Zeman『The Suicide of Robert Bresson』:ブレッソンは聖アンブロシウス主義(ジョン・ダン、ジョルジュ・ベルナノス)を『バルタザールどこへ行く』、『少女ムシェット』、『儚い女』で強化。『田舎司祭の日記』の伯爵夫人の自殺。…司祭は伯爵夫人より巧妙な進路を選ぶ。運命予定と自由意志の葛藤は死によって解決できず、信仰によって受け入れるしかない。運命予定論(アウグスティヌス、アクィナス、カルヴァン、ヤンセン)。

p.152 ブレッソンはフォンテーヌの運命は神に予定されたものかと尋ねられ、"「私たちの運命はみんなそうじゃないか」"と回答。ジャンセニズム。『抵抗』の副題の「風は己が好むところに吹く」(『ヨハネ福音書』3章8節)は恩寵が予知できないことを表す。オルシニの死、牧師のポケットの聖書、ヨーストがいてはじめてよじ登れる塀。

p.156 ブレッソンが俳優を再登用しなかったのは、彼らを「苦行浄化」させてしまったため。小津に苦行はなく、「新しい肉体」はこの世でも手に入る。恩寵は誰でも容易に入手できる。超越者を認識することはブレッソンには死に方で、小津には生き方。

p.157 ジャンセニズム、カルヴィニズムは芸術には無関心。異端的カルヴィニズムの芸術家:ジョン・ダン、レンブラントも派閥を発展させなかった。

p.158 クマーラスワーミ『アジアにおける芸術理論』:「西洋芸術はキリスト教・スコラ哲学のものと、ルネサンス以降の個人主義のものがあり、前者は東洋芸術と理解しあえる」
 スコラ哲学で芸術は知の徳(『神学大全』を参照せよ)。それ自体が目的でなく手段。
 パノフスキー『ゴシック建築とスコラ哲学』:「スコラ学派はゴシック建築を後期表現主義的な正面でなく、その数学的統一で表現した」…信仰と理性の内的ひずみにより、ひびが入り、合理的な美学が異常に発達し、歪んだ線・形に屈服した。
 ビザンティン美術の聖画像・モザイク画:正面性、表情のない顔、左右対称の構図、平面性。神そのものがすべての表情を超越するため。

○カール・テホ・ドライヤー

p.180

・ドライヤー"「つまり私は、作品をつくる時に、その作品にとってそのスタイルしかないというようなスタイルを発見しようとした」"。

・クロード・ペランの分析では、ドライヤー作品は室内劇(カンマーシュピーゲル)と表現主義の両極。
 室内劇:『ミヒャエル』、『あるじ』、『ふたり』、『ゲアトルーズ』。
 表現主義:『吸血鬼』。
 超越的スタイル:『奇跡』。
 表現主義-超越的スタイル:『裁かるるジャンヌ』、『怒りの日』。

p.197 ブレッソンは『裁かるるジャンヌ』の「道化芝居」を批判。

p.201 『裁かるるジャンヌ』では終結部は静止状態でなく、社会的状況の位置付けに使用。裁判官たちや群衆。ブレッソンに対し、ドライヤーでは火刑柱のあと上方=天国にパン。

p.211 伝統的な室内劇:室内。一定の部屋と限られた人。ある場面と会話がくり返され、純化し、心理的な真実が明らかになる。自然主義的で誇張はない。

p.212 『奇跡』はドライヤー作品において、多くの場面が驚くほど一元的。人物は空白の垂れ幕のような装置の前で、カメラに真正面に向き、台詞を暗誦。構図は静的。人物は固定された画面の枠で、ひとつの行為を演じきる。長回しにより、人物は時間的な余裕をもって、部屋の中をずっと歩いてきて、カットなしで会話に加わる。=日常的なもの。

p.214 ヨハネス(キリストの象徴。「光と闇」の台詞は『ヨハネ福音書』1章。復活は11-12章「ラザロの出来事」)。ヨハネスの狂気はアンネ、マルテのように歪んだ環境の産物ではない。ヨハネスの環境は健全、平凡、日常的で、変なのは彼だけだ。率直な意見、無表情な顔、宗教的妄想、実利的世界での無能さ。=乖離。
 超越的スタイルの映画では、乖離-決定的出来事を経験し、静止状態に帰結するのが中心人物。ヨハネスはあくまで寓意的人物。

p.218 奇跡のあと、ヨハネスは脇役に戻る。作品が強調するのはヨハネスの(精)神性でなく、インガの肉体性。ミケルは「(「魂は天国に行った」という慰めに)私は彼女の体も愛していた」と答える。ヨハネスは正気に戻る。殉教・聖人性の真逆。ヨハネス、インガは人生の活動を再開した。
 『奇跡』の結末は室内劇。心理的ドラマ。不寛容の克服、差異の調和、楽しく生き、信仰を人間味のあるものにする。
 静止状態に帰着しないのは、決定的出来事があまりに突飛で信じがたいからではない。それが超越者と対立的な、内在的なもの、経験可能な心理に向かうからだ。

p.219 ドライヤーもブレッソンと同様、苦行(受苦)、監獄の隠喩を使用。ブレッソンでは死は肉体から分離した精神、ドライヤーでは死は再生・新しい肉体。ジャンヌの死は社会的動乱、マルテの死はアンネ、インガの死は復活。ドライヤーは静止状態を欲しない。永遠の乖離。肉体と精神はつねに活動、緊張。ブレッソンは南欧のビザンティン美術、ドライヤーは北欧の芸術と神学、とくにゴシック建築に近い。

p.221 ヴォリンガー『抽象と感情移入』:「自然主義」と「様式」の二分法。
 「自然主義」:感情移入。現世的。写実的な描写と柔らかな線。
 「様式」:抽象。あくなき欲求。精神的なものへの希求。観念的な描写と垂直・角張った荒削りな線。…あらゆる有限性から解放された抽象的な形式のみが、世界像の混乱状態に当面した人間をして平静を得させしめる。ビザンティン美術、ゴシック美術ともに様式。これら南欧(ビザンティン以前は東洋)美術は北欧美術より「荘厳」。
 ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』:東方人の無表現、ゴシック人の昂進された抽象的な線は、老年期の静寂主義と青年期の激情。
 北方のゴシック建築はビザンティウムとルネッサンス初期(マサッチョなど)との緊張。神の不変の宇宙の理想的秩序と、その中心におかれた人間の過去と現在の苦悩を感じる各人の変化する実存。
 ハウザー『芸術と文学の社会史』:ゴシック期に超越の概念は人文主義・汎神論をとり込み、自然的・感性的現実と和解。サイファー『ルネッサンス様式の四段階』:"「(ゴシック美術とは)ロマネスクの聖像(イコン)の非人間性に対する人間の復讐」"。
 この二元性は解決も超越もされず、永遠に衝突。解放に向かう追求に対し、麻痺させるか陶酔させるかしかない不安な逼迫。結果として、超感覚的な忘我境・恍惚へ。ゴシック美術はそのためにすべての呪術、すべての光と影の魔術を用いたが、宗教美術がこのようなことをしたのは初めてだった。
 帰謬法によるスコラ哲学の証明。聖者像と怪物像、支配者としてのキリスト像と十字架のキリスト像、斜線の力と垂直線・水平線の力。永久の矛盾、中心点や極点の欠如。

p.228 『裁かるるジャンヌ』の画面外への構図。
 ゴシック大聖堂の外陣(力の線が破裂して飛梁まで突進する)。
 サイファー「中世絵画の究極的達成」:アヴィニョンのピエタ。

p.230 ブレッソンもドライヤーも自然主義というよりスタイル、感情移入より抽象を好む。
 ブレッソンは空間を統一、背景を形式的・平和的なものにするため、無表情な抽象の線を使用。構図は反対し合う動きを消す。中心点=(主人公と環境の)緊張は1つ。
 ドライヤーは空間を分割。抽象的な線の強められた表現。中心点は多数で、不安定・不満・抗争的。『裁かるるジャンヌ』では右から左への斜めの方向付けのショットは、逆方向のショットに繋ぐ。『怒りの日』では、自然主義(牧歌的)とスタイル(強い明暗の室内場面)。『奇跡』では無表情な抽象的な線(白い壁)、表現性に富む抽象的な線(夜の室内場面)。『怒りの日』では歪んだ環境と衝突する人間性(アンネ)、事実に基づく環境と衝突する人間性(マルテ)。

p.233 パウル・ティリヒによれば、新教徒の芸術はすべて緊張、衝突、苦悩。この世の肯定と否定の永久の戦い。その究極の象徴が十字架。

○結論

p.241 聖なる芸術は豊かな手段と貧しい手段を併用する。前者は肉体的存在を支える。つまり興味を維持する。後者は精神を向上させる。
 「自然主義」:感覚的、感情的、人文主義的、個人主義的。柔らかな線、写実的な描写、三次元性、実験性。感情移入を助長する。
 「様式」:形式主義的、聖美術的。抽象、様式化された描写、二次元性、厳格性。尊敬と理解を助長する。
 両者の比率が「精神性」の尺度になる。

p.245 空間芸術は時間美術を欲する。またその逆も然り。ホガースの連作、バルザックの絵画的描写。バザン曰く「遠近法は絵画の原罪だった。ニエプスとリュミエールがその原罪から救った」。写真と映画はリアリズムへの執念を満たした。ハウザーによれば、映画は世俗化の仕上げ(ジョイスとプルーストを参照せよ)。
 小津は逆に映画を聖化した。これは時間の逆行に他ならない。

p.251 観客は当然、はじめは豊かな手段を求める。映像が静止しても観客が動きつづけることがある。これが聖なる芸術の「奇跡」だ。そこではもはや、どんな現世的な手段(豊かでも貧しくても)も通用しない。ドナルド・スコラーの分析によれば、ブレッソンの映画は物語的、絵画的、造形的段階を通しての旅。

"この間違った三段論法の古典的実例がセシル・B・で見るの『十戒』(一九五六年)にある。題名の故事を表わす場面で、モーゼはシナイ山に立ち、神は画面右手の外にいる。予兆の雷鳴が轟き、神が十戒を一つづつ、画面上で待ち受ける石板に文字どおり投げつける。十戒は最初くるくる回る火の玉となって現われる。疾風の音をともなって。それから火の玉は速く、大きくなりながら、画面を横切り、石板に衝突する。煙がぱっとあがり、それが消えると、石板には文字がはっきりと刻まれている。こういうごまかしは、安い製作費でつくった"聖書を題材とする"映画にも、ほとんど同じようにばかげたやり方で示されている。"
"観客にはわかっているのだ。オーヴァースローで投げられる十戒は天で表現されたものでなく、どこかのぢルムの現像所でなされたものであることが。そして、奇跡的な魂の救済は神によるものではなく、不器用な脚本家によるものであることが。"
(p.254)

p.257 貧しい手段のみによる映画。P・アダムズ・シトニー『アメリカの実験映画』「構造映画」:マイケル・スノウ『波長』、ブルース・ベイリー『静物画』、スタン・ブラッケイジ『ソング27』、ウォーホル『眠り』『食べる』『エンパイア』。


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