マイルドヤンキーとインテリ層の違いからみた孤独の正体
うちの家系は、僕以外いわゆるマイルドヤンキーだ。
地元から出ることは考えない。
会話の内容はせいぜい前後3日くらい。
漠然とした将来への不安は持っていても、キャリアという概念がないので、とりあえずがんばる。
超短期的で超具象的に生きている。
末恐ろしい世界である。
辛いことばかりだった反面、よかったこともあった。
人からどう思われるより、自分の行きたい道をゆくように育った。
だってどのみちいつ死ぬかわからんし。
絆は大切にするし、こそこそなんかされたら殴りに行く。(気持ちだけ)
サバイバルな世の中で生きていくスキルは誰より身についた。
ただ、僕の人となりを知る数少ないあなたたちは分かるかもしれないけど、これは狼の群れが人の子を育てていたようなものである🐺
狼たちを愛してはいても、ずっと一緒に生きていくのは到底ムリな話である。
それほどギャップがあるので、帰郷すると孤独だけを持ち帰ってくることが多い。
小学校のときの友達と久々に話して合わないな・・・となるあの感じが近い。
楽しくないとか嫌いとかそういう問題ではない、自分と見ている世界が異なりすぎるだけなのだ。
もちろん我々どうせ死ぬので、そこに貴賎はなんてない。
そんなことはわかっている。
ただ、事実として、言い知れぬ孤独がわいてくるのだ。
この孤独の正体は一体なんなのだろうか。
我々のような”知識階層調整クラスタ”(=マイルドヤンキーのいた世界からインテリ層へ突入した人たち。お受験を経験した”早期知識階層調整クラスタ”はこの定義から外れる)が抱えるこの孤独が、今回休日に早起き(11時)してしまった、僕の関心事である。
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この孤独を分解していくにあたって、2つの出来事がある。
1つ目は、中高で同程度の知識階層に所属(=知的階層調整が起きる)し始めると、この感覚が大分軽減したこと。
先に書いた孤独は、自分側がコントロールできる感情というよりは、特定の状況下において発生するものなんだと、14・15歳くらいのときに気づいた。
ただ正直なところ、14・15歳の自分は教室でセックスしてた記憶しかない。狼界代表🐺みたいな叔父さんは、その頃盗んだバイクで中学の廊下を走り回っていた。
やってることは僕もマイルドヤンキーたちも、それほど変わらないのである。
それでも多くの”知識階層調整クラスタ”は、同様の時期に違和感を覚え始めている実感がある。
これは、意識高い系のことをやっているだとか、難しい勉強してるだとか、そういう事象レベルの問題から発生したわけではなく、かつコントロールできない何かから生まれた感情であることの証明に他ならないのではないか。
2つ目は、社会に出て初めて湧いた感情が、明確に孤独であったことだ。
同程度の知識階層(インテリ層)にいるはずの同期と関わった時に、自分の心にあったのは何故かよく知っている孤独だった。
自分よりも仕事のできるであろう先輩と関わっても、やっぱり出てきたのは孤独だった。
これは一体どういうことなのだろう。
現在は、その中でも自分に共感して、真剣に向き合ってくれる同期や先輩に1年かけて出会ったり、そもそも似た感覚の人が集まって遊び倒すコミュニティ( #コルクラボ )に出会ったりして、なんとか孤独を極力減らした状態で楽しくやっている。
この人達と、孤独をもたらす人達の違いはなんなのだろう。
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これは僕の仮説となるが、
『人は周囲と違う景色(≒思考の質が違う)を見ているときに孤独を感じる』のではなかろうか。
1つ目の知識階層調整を振り返ると、思考の広さの違いがもたらしていたのではないかと思う。
明日のことだけを考えることと、3年後を見据えて動くのは全然思考が変わってくる。
見ている長さが違えば、発言も行動も何もかも変わる。
同じことに取り組んでいるにもかかわらず、自分が考えていることが理解されないことは、言い知れぬ孤独をもたらす。
経営者やリーダーの孤独問題も、ここから湧いているような気がする。
2つ目は、考えていくと、自分軸の生き方か社会軸かどうかがもたらす、人に対しての思考の深さの違いだった。
学歴や大手など肩書きを大事にしたり、周りにどう思われるかを大事にして生きている人と話すと、僕はものすごく孤独に陥る。
自分は思想が非常にくっきり自分軸(自分が何を成したいのか、自分が誰を幸せにしたいのか基準)によっているタイプだ。
だからか、僕は、ものすごく愛されることもあれば、上記のような人にものすごくバカにされたりするという、とても明確に人から判断される人生を送ってきた。
自分軸で生きようとすると、否が応でも思考し続けるほかなくなる。
正解がないかつ流動的なので、そう在り続けることは大変だ。
自分軸で生きていくということは、”思考を停止させずにどう生きるか”ということとほぼ同義だと思う。社会軸で生きていければどれだけ楽かと思う。
それは死んでるとも思うけど。
そうすると、思考の深さが合わなくなっていく。
(実際合っていないわけではなく、関係が浅くて自分と相手の本来持つ深さで会話できてないときだってもちろんある)
人とわかり合いたいと思えば、僕は相手の思考の深さや、そこで感じたどうしようもない感情を知りたいと思う。
それを放棄されたり、ものすごくギャップがある状態は心から苦痛だった。
この”思考の質の違いが生む孤独”は、マイルドヤンキーに対しても社会軸インテリ層に対しても大差なく湧き上がってくる。
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朝が早くて年に3回くらいしか行けなかった大学のゼミで、
「物事を見る時は、”視野・視座・視点”を絶対に意識しろ」
という言葉を何度も言われた。
自分がどこから、どういった観点で、どこまでの範囲を見ているのか。これによって見えてくる景色が変わってくると。
孤独を生まないためにもこの教えは使えるのかもしれない。